2021-01-01から1年間の記事一覧
▼供養塔「奉納大乗妙典日本回国供養」 一族や地域が安泰でありますようにと。 胆江日日新聞社宮本様から教えていただきました。ありがとうございます。 金ヶ崎の泰養寺入り口にもあるそうです。 ネットには次のようにあります。法華経の布教でしょうか。 ▼上…
宝暦1年(1751)磔刑 胆沢郡水沢(岩手県水沢市) 長吉、山崎杢座衛門 宝暦4年(1754)★古文書にある年号 天明2年(1782) 信仰碑造立 前畑屋敷③三左衛門 寛政元年(1789) ★古文書にある年号 推定(1795) 9代孝内 江戸で死去
天明二壬寅歳 奉納 大乗●●●回向● 四月十五● 願主 三左衛門 ではないか。教育委員会高橋さん 下屋敷から隠し念仏の古文書が出て、曽利屋敷旧墓地から、それに関連する「信仰碑」が現れた。こう見てよいのか? 前沢や赤生津郷土史には、隠し念仏はない。この墓…
研究紀要第50集が発行され岩手県南史談会より送られてきました。 赤生津安部氏の出自が、安倍頼時七男の可能性があり、子孫は葛西家臣から豊臣秀吉の奥州仕置により浪人となったことが書かれています。 故安部徹良氏(仙台市在住)の未完の書を完結すること…
下屋敷の分家が途絶える際に、引き継いだ長持ちの古文書の中に紛れていた。
旧家解体の際に、大工が、天井付近から発見する。
赤生津安部の下屋敷所蔵の安部系図とともに古文書が現れた。歴史遺産課高橋さんに聞くと「隠し念仏」に関係あると。安部家との関係は、これから調査。 【コトバンク】出典 朝日日本歴史人物事典 ㈱朝日新聞社/朝日日本歴史人物事典について 鍵屋五兵衛 江戸…
▼天保9年(1838)安部九右衛門 妻 曽利畑屋敷②九右衛門 前畑屋敷③三左衛門の二男系統の2代目の妻である 前畑屋敷初代は、畑屋敷⑤兵部二男
安部万王氏宅西にある 祭日9月12日 「大任命」祭神 ▼安部万右衛門 祠の隣にある。 前畑屋敷②万右衛門 前畑屋敷は畑屋敷⑤兵部二男系統
ゼンリン地図に存在しない墓地。子孫がとだえ、もはや参拝されなくなった旧墓地を調査。 現在ない「曽利畑屋敷」前畑屋敷③三左衛門の二男系統の子孫と思われる。 安部本家畑屋敷⑤兵部の二男 の前畑屋敷③三左衛門の二男系統ではないか。 ▼修復前 ▼修復中 ▼修…
修復前 修復後 ▼寛政(1789-1801) ▼文政9年(1826) ▼天保(1830-1844年) 戒名「金策信禅男」。金策=「金作」でないか? 【推測】曽利畑屋敷 前畑屋敷③三左衛門の子系統。②代目の「金作」ではないか? 天保(1831-1845) ▼天保2年(1831)
倒れた墓石の年代調査。気になるのは戒名、梵字の下に「C」、丸みを帯びた戒名。 【推定1】天明2年(1782)没 三左衛門 前畑屋敷③三左衛門 ではないか 前畑屋敷初代は、畑屋敷⑤兵部二男である。 ↓違うかもしれない 【推定2】天明2年(1782)安部三・・・とあ…
▼赤生津安部本家 【畑屋敷】①肥前ー②十郎左衛門(市良左衛門義里)ー③兵庫(十良左衛門義則)ー④将監(惣右衛門)ー⑤兵部(三四良)ー⑥孝内ー⑦三左衛門ー⑧四郎兵衛ー⑨孝内(江戸にて死去・7代三左衛門二男小四良の子勘太郎跡継)ー⑩孝内ー⑪幾太郎ー⑫幸内ー⑬…
〇御産堂 安部 白鳥蛇ノ鼻の開田(赤生津)に田を所有していた。 他の所有の土地をまたがなくとも田に着いた。田が広大で、分散していないことを意味するという。 御産堂旧墓地には2mほどの巨大な墓がある。現在の所有者はよくわからない。昭和のときに墓じ…
【岩手県姓名辞典・391頁】安倍・安部 胆沢郡胆沢町若柳に、安倍(あんばい)姓が多い。古くは安倍(あべ)であり当地の安部姓の家と同族であるという。安倍家は時代によって、安部または阿部を名乗っているが、明治の新姓にともなって本来の安倍に戻った家…
「金山技師による開削」説は、近年、富士大学学長による研究からである。照井太郎は、平泉藤原時代に、金鉱山技師とともに優れた技術で、奥羽山脈からの雪解け水を、胆沢平野の扇状地に水路で広げた技師である。 胆沢愛宕の「安倍」家は、岩手姓名辞典にも掲…
長者ヶ原遺跡
【赤生津初代肥前の愛宕堂】 畑屋敷北側の祠付近に、安部本家から分家し住んでいた人があり、愛宕堂付近に移住したが、日当たりが悪く?、現鈴木家の南側に移住した(山ノ神屋敷万王氏)。 【愛宕堂付近墓地】 青木地内の愛宕堂あとの北東に数十メートルに、…
【著者】 安倍頼時の七男則任「比与鳥七郎」の子はいずれも「太郎」を名乗る。長男「頼任」は安東に、次男「泰平」は安藤に改姓となる。「和任 比与鳥小太郎」は白鳥に残ったのだろうか。「比与鳥小太郎」は、照井太郎と改姓しただろうか?。 【「安倍・安部…
【照井年表】 1492年 照井太郎胆沢穴山用水堰小松入り口開削 1493年 照井太郎、照井堰開削と前後して、胆沢馬留穴堰掘削 【胆沢平野土地改良区HP】 【特集】胆沢平野の水の歴史を学ぼう (mlit.go.jp) の古代用水路「旧穴山堰」(きゅうあなやまぜき) 現在、胆…
「衣川安倍頼時の七男比与鳥七郎則任」 ネットで見ると・・・「比与鳥の柵」と関係あるらしいが。調査はまだこれから 安部則任のいた比与鳥柵として前記の善知鳥舘や陣が岡が擬定されているが、江刺郡稲葉瀬のツタの木説が有名である。 「比与鳥の柵」は、現…
「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて 第七報 葛西氏没落後に白鳥村舘から赤生津に移住した安倍肥前と、葛西家臣安部小次郎が同一人物であることの再検証 一 概要 伊達世臣家譜の平士「阿倍」に、「小次郎重綱というもの、葛西氏に仕えて天正の頃磐井郡赤生津に…
理屈で説明するならこうなるか? 赤荻安部系統は、「安部家系図及阿部家由緒略記」から衣川阿部氏の末裔と伝わる。「赤荻・荻荘系譜」によると、外記之介は佐沼城主(検証では城臣ともいう)で「下袋阿部氏の祖」とある。史料上は出自、所領は不明である。外…
㊀外記之介 出自の記載がない。 【研究紀要30集・63】 荻荘16代正綱 女 鶴子 佐沼城主※安部外記之介の妻。天正18年葛西氏滅亡の際浪人 生家に帰る。文禄3年甲午6月5日没す。註 下袋阿部氏の祖 【研究紀要40集・24】 ※「佐沼城臣」が正しいと思われる。佐沼城…
伊達世臣家譜の平士「阿倍」に、「小次郎重綱というもの、葛西氏に仕えて天正の頃磐井郡赤生津に居り、五千刈の地を領す」とあり、阿倍一族である伊達藩士「阿部隋波」の出自が示されている。伊達世臣家譜とは、第一巻序によると、諸臣の家格・待遇の公的な…
伊達家臣阿部隋波は、「中里村史」(117頁)によると、「元和5年(1619)赤荻に生まれ。山目に出て木材を買い、北上川の流水を利用し、石巻に輸送して巨利を博した。江戸の大火では、石巻に蓄積の木材を江戸に搬送し、数万両の利を収めた。銅山業に尽くす。…
▼9代 孝内(推定1725-1795) 【畑屋敷所蔵系図】 「江戸にて死去 跡相続不叶となり四郎兵衛の弟小四郎の嫡子勘太郎跡継とする」・・・切支丹と関係あるだろうか。今後の課題 ※前沢町史では 1792年 赤生津最後のキリシタン類族とある。 ▼12代孝内(推定1785-1…