赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

2021-07-01から1ヶ月間の記事一覧

佐沼家臣に安倍出雲頼春(1300~1400年代)。佐沼城に安倍氏いたか?

【研究紀要30集・59】 荻荘家 9代 正義(1384没) 子の「きく」 佐沼家中安倍出雲頼春の妻 【当調査】 安部外記之助は、佐沼城主(臣?)という。安倍出雲と関係は? 【栗原郡佐沼喜多方村在所拝領】 文明(1469-1487)の頃、佐沼右衛門佐平の直信住居仕り

安部外記之介は「葛西氏の執事」?

【仙台領の戦国誌・196】 気仙の暗雲、「浜田の大乱」 「古文書」によると、葛西晴信はこの争乱を、本吉氏側に落度があるものとし、「お前には、武力抗争のために立ち上がった正当な理由があるのだ、わしは少しもお前をとがめる意志などない、勝利に終わって…

荻荘家と赤荻安部家は2人が血縁関係。安部外記之介と子の上野は佐沼城に勤務?荻荘18代正久は、東山大原に加勢し佐沼城で討死

【研究紀要35集・52】 <下袋屋敷> ①安部外記之介ー②上野「葛西幕臣阿部上野総太郎頼成」-③大学 ※①佐沼城主(臣?)安倍外記之介。下袋阿部氏の祖 ※②上野は、佐沼城に奉仕。 ※【仙台領の戦国誌・196】①安部外記之介(葛西氏の執事職) <荻荘家> ⑰正權「…

佐沼城の住居人

【仙台領内古城・館2巻・324】 文治(1185-)年中 藤原秀衡家臣 照井太郎直高 住居仕り 文明(1469)頃 佐沼右衛門佐平の直信 住居仕り 天文(1532)年中 大崎御家臣 石川四郎右衛門直村法山入道 その子豊後義誠 その子丹後義広 その子彦九郎 まで4代住居仕…

荻荘系図に「佐沼城主安倍外記之介」。登米市の佐沼城臣?ルーツはどうなるか?

【研究紀要30集 赤荻・荻荘系譜の一考察・63】 荻荘系譜 ●16代 正綱 妻 弓子 女 鶴子 佐沼城主安倍外記之介の妻。天正18年葛西氏滅亡の際浪人生家に帰る。文禄3年甲午6月5日没す。註 下袋阿部氏の祖。 ●18代 正久 赤荻姓 覚波館主 天正18年8月 佐沼城で討死 …

「白鳥村照井ノ舘」に居た「照井太郎」年譜

【http://sendai-oldlocal-histry-takakura-kiyosi.saloon.jp/terui.htmll.htm】 伝承では藤原秀衡の家臣照井太郎高春が用水路の開削に着手し、その子孫高安が荻荘荘司大江氏と結んで造り上げたと言います(西磐井大肝入大槻久右衛門書上)。また藤原氏滅亡…

荻荘家の由来「藤原泰衡の子良衡」。照井高泰と荘園内の水利を興す

【照井土地改良区小誌・13】 荻荘荘司について 荻荘家の先祖は藤原泰衡の子良衡であります。 平泉藤原氏が文治5年(1190)源頼朝の大軍に攻められたとき、秀衡の子万寿丸(2歳)は祖母徳子(秀衡の妻)母頼子と共に僧助光坊の計らいに依り須川嶽を超え鎧谷頼…

荻荘家と照井家は2度(1208年・1493年)共同して照井堰を開削

【幾星霜 照井土地改良区 474】 〇1208年(承元2) 照井高泰・荻荘荘司と共に磐井川両岸に穴堰開鑿し、山目境まで掘鑿 〇1493年(明応2) 照井高安(高直?)、荻荘荘司と相謀り私費にて磐井川両岸に穴堰を通し、山目、一関方面へ導水、右岸を南照井堰、左岸…

白鳥村照井之舘にいた「照井太郎高春」の照井堰とは

【幾星霜 照井土地改良区・98】 【いわての農業にまつわる物語「照井堰と弁慶」・岩手県農林水産部】

新たな仮説「1481年の 照井太郎隆定(又は子)が安倍外記之介」?

【当調査】 1158年、赤荻・荻荘系図に「佐沼城(登米郡)城主 安倍外記之介」。照井高直(照井子孫)は佐沼城に居住で征伐の難を避け照井堰を開削に来た。1300年代は消息不明。 1481年、照井忠基の後裔が平泉に戻る。1493年には荻荘と共に開削。その後の消息…

白鳥村照井舘は、「照井太郎孝治(1100年代)」の居館、墓は「照井神社(一関市中里)」

【水土里ネットてるい】「照井堰とそれを完成させて照井太郎のお話」 〇照井太郎高春のお墓 ・一関市中里字照井地内にある「照井神社」の五輪塔 ・五輪塔は平安時代の特徴的なお墓である。 〇照井太郎高春の住んでいたところ ・照井太郎高春の住まいは照井館…

安倍家系図と白鳥氏、照井氏との血縁関係は?

【①赤生津安部】 白鳥七郎→衣川落城→白鳥村手類(照井?)之舘居住→藤原三代に仕える→高館落城→葛西家臣17代まで仕える→葛西没落で手類之舘住めず→赤生津村に移る 【②赤荻安部】 衣川安倍を祖→外記之介は赤荻といわれるが赤生津居住→葛西没落後→子孫は赤荻へ…

白鳥は葛西の直轄地。恩賞だけの家臣除き、居住した城主は、白鳥治部、照井高晴のみではないか?そのうち天正中いたのは白鳥、照井は子孫がいた

【前沢町史中巻160】 白鳥は葛西の直轄地か 白鳥村は再三、葛西の恩賞の地となっている。 永享11年(1439)金沢北館主熊谷小太郎直胤に 1万2千苅 天文12年(1543)前沢領主三田主計頭重明に永代 5千苅 永禄11年(1568)猪岡領主猪岡又太郎に永代 2千苅【偽書…

天正のころ昔木館(前沢城)に阿部四郎丈夫安部成(しげ)任古雄居給(いたまう)。安倍一族か?

【前澤町郷土史史料・2】 〇昔木明神 〇昔木館 葛西動乱期の追記、樫山伊勢守二男居城の頃に、前沢御沢城居住す、此城は元来阿部四郎丈夫安部成(しげ)任古雄居給、昔木館と云名地也古来明神の社地有、此所は白狐住玉山御室有此城は官位無くして難所なり (…

「白鳥八郎行任」は白鳥舘に「白鳥七郎則任」は津軽に逃げ白鳥へ?

【前沢町郷土史史料・3】 〇白鳥舘(白鳥村風土記) 本丸 南北42間 東西14間 二丸 南北50間 東西14間 三丸 南北38間 東西14間 右城主往古阿部頼時の八男白鳥八郎行任と申伝候、其後白鳥治部少輔と申御方天正中御住居之由申候 〇山城白鳥城(仙台古城書上) …

照井舘主の子孫照井高安は、荻荘荘司(藤原泰衡子孫で赤荻安部の親戚?)と照井堰を完成させた?

【照井土地改良区の概要】http://www.terui1170.com/category7/ 当時、干魃や飢饉で苦しみ悩まされ続けた村々の窮地を救うために立ち上がったのが、鎮守府軍藤原秀衡公の家臣で普請奉行であった照井太郎高春である。その高春の企画により、五串の滝(天然記…

「照井館(太郎高晴 新城館 熊谷直胤一万一1千刈加賜)」の新城館とは?熊谷直胤?

白鳥村の新城は、地方史では館主不明である。熊谷直胤氏が、住することなく葛西氏から土地を拝領したのみではないか。 【前沢町郷土史史料】 〇新城(白鳥村風土記) 南北50間 東西14間 古城主年月日相知不申候 【前沢町史】 位置 前沢町白鳥字新城 国道4号…

照井館「太郎高晴(1189)」は、代々照井堰を開削した家系。現在の堰は「世界かんがい施設遺産」に。1500年頃は白鳥郷主ともある

【当調査】 照井氏は、初代高春(1189)から数代まで白鳥への開堰にあたり、一関の照井堰の開堰へと移っていったのではないか。照井館の館主は初代の高春だけである。館には子孫が住んでいたか。 岩手県史には、白鳥邑「照井舘」館主に「照井太郎高春」とあ…

「白鳥邑 手類之舘」は「白鳥邑 照井館」か。

下屋敷から発見された由緒は3種類あり。古い順に ①「安倍家系図」から書き出しがはじまる系図・・・由緒と初代から2代目まで ②「磐井郡東山」からはじまる系図・・・由緒と初代から5代目まで ③「磐井郡東山」からはじまる系図・・・由緒と初代から5代までと…

赤生津安倍家系図の「藤原之清衡より三代使えり、高舘落城し」の「高館城」は平泉

北上川奥の左には、「白鳥舘と照井館」河の右には赤生津 岩手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所14 【岩手県史4・26頁】 仙台管内村・城舘・城館主名及び在家表 平泉 高館城(藤原秀衡、後、源義経) 民部少輔基成のち義経、阿土城(安土日向守)

寛文6年(1666)赤生津村では北上川悪瀬で難破船の救済など人手不足から訴状。白鳥邑牛類(水制)も説明がつく??

岩手県南史談会研究紀要「近世に於ける北上川舟運についてー東山・西岩井を中心としてー」八巻一雄氏 岩手県南史談会研究紀要「北上川の舟運と艜舟の難破」千葉明伸氏 大石家の記録から、赤生津の北上川の悪瀬(危険な所・場所)のため難破が多く、艜下り河…

赤生津切支丹を墓字から探る

キリシタン墓字の研究は近年はじめられた。 キリシタンが岩手県南史談会に取り上げはじめられたのが、研究紀要第15号(昭和61年)。山目円満寺檀家のキリシタンが多く、阿部随波も切支丹ではないかとという。「理解ある人々の解放資料」により証明してくれる…

第7報に関する関係者所見

【奥州市歴史遺産課担当】 白鳥邑「牛類」之舘は未見。白鳥邑には3館あるが、この名は見当たらない。(天正(1590年)のころ)当時の北上川は蛇行でなくほぼまっすぐであり、水制は必要ないのではないか。赤生津側岸の杭は土留め。系図には「午類」とも見え…

第7報 葛西家臣安部小次郎と赤生津安部初代が同一人物であることの再検証(第3校)

「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて 第7報 葛西家臣安部小次郎と赤生津安部初代が同一人物であることの再検証 1 概要 戦国期、衣川安倍一族の末裔と伝える磐井郡赤荻(一関市)の葛西氏家臣の安部氏は、外記之介を祖とし、気仙郡浜田の乱に調停者として活躍…

由緒所有者は、昭和に途絶えた家「下屋敷の分家で初代安部與傳治」。4代将監三男の2代目からの分家である

安部由緒書を所持していたのは、4代将監三男の分家でなく、将監三男の下屋敷の2代名からさらに分家した子孫で初代を「與傳治」という。盲目であったという。昭和年代に9代の壽平が家を閉じるときに、下屋敷に引き継いだものと考えられる。 ということは、由…

「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて第7報 葛西家臣安部小次郎と赤生津安部初代が同一人物であることの再検証(第2校)

「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて 第7報 葛西家臣安部小次郎と赤生津安部初代が同一人物であることの再検証 1 概要 戦国期、衣川安倍一族の末裔と伝える磐井郡赤荻(一関市)の葛西氏家臣の安部氏は、外記之介を祖とし、気仙郡浜田の乱に調停者として活躍…

第7報研究論文の謝辞

研究論文第1報から第6報の著者はじめ、赤生津安部家、赤荻阿部家、行政機関の皆さまに助言いただきましたことに深く感謝申し上げます。 (研究第1報から第6報著者関係)安部紀子氏、安部公良氏、森静子氏、安部完良氏 (赤生津安部系図提供・助言者)安部万…

安部外記之介から小次郎(肥前)まで白鳥牛類之舘と東舘にいた

葛西没落時の天正18年(1590)に白鳥舘と東館の住人は、地方史では、白鳥民部または治部と、安部小次郎である。安部外記之介の代から住していたとすると、当時は、安部外記之介(70歳)、上野(48歳)、大学(25歳)、豊前(10歳)の家族がいる。あるいは、…

安部外記之介の出自は地方史上は不明。宮田城の赤荻(荻荘)家と婚姻関係で赤生津から赤荻に戻ったのではないか

【当調査】 地方史からいうと「安部外記之助」は赤生津に住しており領地は不明、その先祖も明らかでない。葛西没落後は、姻戚関係のある赤荻宮田城の荻荘家の地域に移住。姻戚関係というのは、外記之介が荻荘家の娘婿であり、妻鶴子は荻荘家19代の叔母にあた…

新たな赤荻安部家・赤生津安部家系図

赤荻下屋敷系図覚書の安部左近の子孫は「赤生津安倍」とある。 赤生津安部系図の初代は「安倍肥前」、2代目安部市良左衛門。御百姓書出では初代安部十郎左衛門となる。 葛西没落前は、安倍氏を名乗り、天正18年(1590)から安部。さらに赤荻下袋屋敷は、帰農…