2021-05-01から1ヶ月間の記事一覧
安部小次郎の祖父外記之助(赤荻)は、軍功により葛西晴信より赤生津に五千苅を与えられた。赤生津東舘に住した安部小次郎も軍功により黄海村に五千苅を与えられたが、葛西没落により赤生津で帰農することとなる。一族は再起を願いやがては、小次郎の兄大学…
【岩手県史3・156】 戦功諸士への加増 気仙兵乱関係文書20余を中心として、その軍功に基く諸士への所領知行の跡を窺うと、この兵乱によって、諸士の所領が、あるいは没収、あるいは加増されたことが知られる。伝えられる文書、家伝によって見ると、登米・本…
【石巻市役所】 葛西晴信偽文書の研究者見解に従えば、正文は①香炉印の上部に二つの突起があり(偽文書にはない)、②香炉の腕が上部がしまり気味で肘が角ばっている(偽文書は開き気味である)、③香炉の底の横線も明瞭で地についている(偽文書は不鮮明)、…
【当調査】 令和3年5月に、石巻市役所毛利コレクションに小次郎宛晴信感状があることを知る。赤荻阿部家の阿部徹夫氏、赤生津山ノ神屋敷(本家代理)の安部万王氏、畑屋敷本家18代の弟 照男氏に聞くと、その存在を知らないという。石巻市史★では、葛西氏から…
▼赤生津安部家分家 山ノ神屋敷 安部万王氏所蔵 赤生津安部家の本家分家を含む8屋敷の系図を所有している。 昭和年代に家屋を改築の際に、居間の天井近く壁の「なぎす?」裏から、隠されていた8系図が発見された。推定1900年ごろまでの系図であり由緒はない…
▼一関市文化財調査委員 小野寺啓氏 【平成23年7月発行・岩手県南史談会研究紀要・23頁】 安部外記之介論考~安部徹良氏論文と関連して~ 一関市文化財調査委員 小野寺啓氏 安部小次郎重綱の帰農について 小次郎が赤荻に戻り帰農したとの史料は、一関側では未…
安部小次郎感状が、毛利氏の手元に渡った経過などを知るために、石巻市役所に問い合わせ、次の回答をえることができました。関係の皆さまに感謝しております。 【石巻市役所】 ①毛利総七郎の収集コレクション 毛利コレクションとは、石巻市住吉町在住の古毛…
【岩手県史3・137】 気仙表6月の戦闘 気仙兵乱は、閏5月には戦斗があったことは伝わっていない。両方とも待機の形勢にあったものであろう。それが、6月に入ると、がぜん活発潑になったらしく、6月2日には、佐藤越中守、鳥畑主水、菅原上野介、金野次郎左衛…
【葛西四百年・278】 1590年の奥州仕置軍迎撃葛西将士には、赤生津から白鳥民部の名があるが、安部小次郎の名はない。あるいは、白鳥城主で小次郎は住人であったためか? 1588年(天正16)に小次郎は黄海村に異動したことが考えられるが、黄海には、千葉新右…
▼秀吉の奥州仕置 【花泉町史・110頁】 流の将士の多くは、帰農離散、何れも百姓か、流浪の士として地下に潜入して再起を期したのが本当らしい。この人々は屋敷の門に「サイカツの木」(葛西が勝からもじった)を植え同志の目印にしたと今尚伝えている。 また…
【安部隋波考証 龍澤寺住職 塩釜素隆誌 昭和33年1月8日】 赤荻阿部家系図及阿部家由緒略記参照 その祖は遠く安部貞任にさかのぼるのであるが、後代外記之助に至って葛西晴信に仕え家老職に在り。上野、左近、大学、その次男讃岐に至り、葛西家は没落し、安部…
赤荻下袋屋敷 安部家 赤生津畑屋敷 安部家 代 名 没年(戒名碑) 初代 外記之助 1590 2代 上野 1612 代 名 没年(推定) 3代 大学(兄) 1635 初代 【推測】小次郎重綱 1635 4代 豊前 1650 2代 十郎左衛門 1655 5代 太郎兵衛 1675 3代 兵庫 1675 6代 對馬 1…
〇天正15年(1587) 赤荻阿部家には、小次郎の祖父外記之介、父 上野、兄 大学が住んでいた(1)。 奥州仕置きの3年前の事であるが、祖父外記之介の軍功により赤生津に五千刈を与えられ、東館に、孫の安部小次郎が居住することとなる。 〇天正16年(1588) …
▼白鳥氏は、初代「山名駿河守義信」である。源義家「八幡太郎」のひ孫「山名」の4代目にあたる。白鳥舘にきて2代目から白鳥を名乗る。これは、母が阿部民部介の娘で、白鳥八郎行任の後裔であるからである。 山名 義経北行伝説 - ミヤペディア (miyapedia.com…
▼天正15年(1587)赤生津村に五千刈 東館に外記之介、上野、大学、その弟左近小次郎 ▼天正16年(1588)黄海村に五千刈 東館に外記之介、上野、大学、 黄海村に左近小次郎 ▼天正18年(1590)外記之介死去、奥州仕置き 赤生津に左近小次郎が戻る? 赤荻村に上…
赤生津安部の口碑伝承も、赤荻安部も「安倍頼時」の子孫を伝える。 【葛西氏家臣団辞典】 ①「赤生津 安部氏」は、赤荻阿部氏の分族である。 ②「赤荻安部氏」は、衣川阿部氏の末裔と伝わり、一関の伏牛城(牛臥城)を拠点に栄えた安部越前(永享7年5月17日没…
【岩手県史3・927】 士農分離に伴い、殊に農民は国名官名を称することが禁ぜられることとなる。元和4年5月8日、東山八沢本郷の、採鉱関係の士分数名が、仙台城下に召集され、金掘鑑札の納付、苗字官名の廃止改名を迫られた。 峯屋敷。山口土佐は東左衛門と改…
▼安部外記介宛感状 晴信黒印(赤荻下袋屋敷 阿部所蔵) ▼安部小次郎宛感状 晴信香炉印(石巻市 毛利惣七郎所蔵)【岩手県史3・140】 安部に関する軍功を評価する感状は、2通あり、安部外記介あてに葛西晴信が赤生津に5千刈を与えた感状は、子孫の赤荻下袋屋…
赤生津安部旧墓地から見える安部家 地方史で「赤生津安部の祖」に注目されたのは、地方史研究者が伊達世臣家譜「阿倍」の漢文書き下しをはじめた昭和40年から前沢町史の昭和51年発行のときではないか。それまでは、「赤生津安部は武士」「安部一族の末裔」の…
伊達世臣家譜では、「小次郎赤生津に住す。葛西没落で兄大学と子が流落」とある。この記載のとおりであれば安部小次郎は赤生津の祖先となる。 伊達世臣家譜「阿倍」の書き下し文 百三十六 阿倍 【赤生津安部の出自を尋ねて65】 阿倍の姓(族名)は藤原。阿倍…
【中里村史116】 阿部随波は、銅山業に尽くし、伊達藩主に献金して大番組(平士)に列せられる。南部鹿角郡の尾去沢、長沢、江刺郡人首の途中山、和賀郡の水沢銅山(三ッ沢)、庄内の永松山・白銀銅山・遠野鉄山はその主なもの。2代小平治が、伊達世臣家譜に…
赤生津安部は2代目から北畑屋敷に移住している。初代は赤生津村外に在住とみる。 【系図】2代安倍市良左衛門義里。同邑(村)北畑家舗。 ▼清室道覚禅定門 延宝元年(1673)…推定 3代 安部十良左衛門 義則 ※墓石は見つけられないが、戒名あり。 ▼宝永2年(170…
【東山町史 95-122】 東山町内の領主(館主)と諸士 (貞綱)葛西氏没落の後は、寺沢館を出て民間に下り、松川でその晩年を過ごした。 (松川)葛西氏滅亡後は、伊達政宗に知行20貫は召し上げられ、民間に降り松川村肝入役を務めた。 (信光)葛西家滅亡のた…
畑屋敷安部家の系図は、2代から12代までは、「磐井郡東山南方赤生津村代数有之御百姓書出」、百姓名簿を掲載した岩手県史4、岩手県姓名辞典(390頁)により掲載と一致しており、13代からは戸籍により証明されている。しかしながら、初代は、他地域から赤生津…
系図に「4代 畑屋敷 安部将監 山神権現造立」とある。分家の安部万王氏宅の裏にある。「大任命」を祭神とし、別当「安部夘助」、9月12日祭日とある。 【生母教育史】 【当調査】他地域では、山の神をも切支丹崇拝の対象としている例もある。当地域ではきいた…
奥本殿の月山神社には、男二子と、女二子神社「子安観音」がある。泰衡夫人が、中尊寺僧にお願いして勧請したと伝える。女二子には子安観音があり、中腹の山中とはいえ、参拝者が絶つことはない。 【生母教育史】祭日は4月29日 【当調査】他地域では、子安観…
畑屋敷から南に1.5㎞には、天台大師の12世紀石像があります。慈覚大師円仁は天台宗を東北に広め、黒石寺再興や中尊寺などにも関わりました。白鳥舘の対岸であり、なぜこの地に安置されたのでしょうか。黒石寺の慈覚大師円仁像は木造で寺に安置されています。…
畑屋敷安部家の稲荷大明神の木札裏には、安政2年(1855)9月15日が読み取れる。明治に入る13年前のことで、13代安部専蔵のころである。年齢は戸籍生年による。 13代 安部専蔵 48歳 14代 安部幸治 31歳 15代 安部四郎兵衛 9歳
ゴールドラッシュ(gold rush)とは、新しく金が発見された地へ、金脈を探し当てて一攫千金を狙う採掘者が殺到することである。秀吉が課した年貢が払えず、葛西氏滅亡後の文禄3年(1594)「金山一揆」が起こり、逃亡や金銭を巡るトラブルが起きていた。岩手…
【奥羽切支丹史441】 仙台藩における古転切支丹類族格式の頒布 奥羽地方中、切支丹信徒の比較的濃厚に分布した仙台藩においては、元禄6年(1693)江戸幕府から、水も漏らさぬ切支丹類族取扱規程が発布せられた後、努めてその趣旨の徹底することに意を用いた…