赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

2023-01-01から1年間の記事一覧

照井太郎開削「穴山堰」の通り道 ~穴山上堰から一三軒ため池~

中沢溜池から 駒込堤まで

1690年上胆沢・下胆沢の図

1690年上胆沢・下胆沢の図

北上川の北岸には白鳥八郎泰家、照井太郎高春…など一族諸武将の邸宅並び(県郷土誌)

照井太郎と白鳥八郎は別々の館にいた。同一人物ではない。 比与鳥七郎則任は白鳥八郎と同一人物ともいわれる。 赤生津安部は、照井太郎のいた照井舘にいた。比与鳥七郎の子孫という。 赤生津安部は、白鳥八郎(子孫)であろうか。このように推測できる。 県…

照井舘の照井家(藤原家臣)は、現胆沢ダムの場所から前沢白鳥川まで穴堰などをとおした。胆沢平野は南側が高く、北側が低い地盤。高い地盤に水を流し低地に行き届くように設計したのか?

赤生津安部家は照井舘の出身である。照井館には代々、照井太郎が住み、胆沢平野の穴山堰を開削していた。その穴山堰は、胆沢平野で白鳥川の北側高地に平行に掘られている。高地から低地へと水が流れるようにかと思われるが、地図を見ると現胆沢ダムからトン…

平泉町長部「大師さま」は、僧形八幡神か?

白鳥舘の東の北上川沿いにある「大師さま」 なぜこの地域に石像があるのかなぞ(平泉町住民) 【著者】 大師さまは、1100年頃の像で、天台大師と伝えられているが、詳しいことは知られていない。 黒石寺の大師とも似ている。黒石寺の大師は、「僧形八幡伸」…

門外不出の系図「藤原泰衡の実子」

解説【市世界遺産登録候補地ガイドの会 後藤和夫氏】 時衡 父泉冠者泰衡 嘉應元年正月ニ生レ文治五年九月三日頼朝ノ先鋒畠山重忠ト戦ヒテ討死セリ年二十 (嘉応元年(1169)、文治五年(1189)、長男) 秀安 父泰衡 安元二年ニ生レ父兄死去ノ時年十四ナリ叔…

前沢古城(旧小山村)の阿部家は「藤原泰衡の実子」(系図は県史にも公表)。一関の泰衡実子とは別の兄弟。

【旧小山村本郷 先人達の足跡 55】 【著者】 古城の明後沢遺跡の南下100mの雑木にうもれるように石碑があるという。現在の地主もはっきした場所がわからないらしい。明後沢遺跡は昭和30年代に発掘され、藤原時代の瓦なども出土。中尊寺の寺領ともいわれる場…

由緒書「比与鳥七郎(則任)の前室は厨川柵の堀に沈む」とあるが。

(著者) 盛岡市天昌寺に厨川柵の堀の跡といわれる場所がある。前九年役で追われた安倍則任の妻が身を投げたといわれるが、堀にしては浅いのではないか。 盛岡駅周辺で北上川も近いが、それほど深い淵はなさそうだと思う。 前沢の白鳥舘脇の北上川であれば、…

安倍則任の妻は、厨川柵でなく白鳥舘東の北上川に身を投じたとある。仙台叢書囊塵埃捨録

囊塵埃捨録 烈女が淵 白鳥舘の東。山際北上川の岸通りなり。前九年の闘戦に。貞任が一族郎等討死降参して。所所の城柵攻抜れ。此白鳥舘も敗亡す。則任が妻女義を(騙)勇に募て。尊父則任未練を發させじと。三歳になりける女兒を抱て。加美川(今の北上川)…

比與鳥柵跡は白鳥舘。安倍則任を比與鳥七郎、または白鳥七郎という(仙台叢書)

「仙台叢書第七巻」 「囊塵埃捨録」 「比浦柵迹。都鳥村」 「白鳥舘の領主比與鳥七郎則任を白鳥七郎と云り。則ち家任の舎弟なり。」 「比與鳥柵跡」 「衆人此柵を白鳥舘と云。前九年の合戦に。安倍頼時が。七男比與鳥七郎則任。此柵に楯籠官軍と戦ふ。加藤修…

新城(白鳥村舘跡)に白鳥舘白鳥氏の出城と阿部家墓石群

「新城」は、白鳥舘、照井舘と同じく、天正(1590)の葛西没落まで存在した舘である。この「新城舘」に関する史料はいまのところない。しかし、白鳥マップのなかに、手掛かりがある。 新城公葬地の東の林中に、「白鳥舘阿部家の墓所が約30坪にわたり墓石群が…

昔木館といわれた前沢城の城主「安倍四郎成任」は、安倍正任(黒沢尻四郎)の子

前沢町郷土史、前沢町史でも課題にのこされた三田氏以前の城主は 日本家系家紋研究所(平成5年発行)によると 安倍正任 黒沢尻四郎 ー 頼嗣 黒沢五郎 ー 成任 黒沢尻四郎二郎 前沢お物見公園の昔木館伝説は、安部頼時の孫、貞任の甥にあたる「成任」が城主を…

白鳥舘民部少輔の墓碑

明治時代に赤生津大石家に古物商から系図が届いた。そこには、白鳥舘城主の系譜がある。家老大石家は11代目からの分れである。 白鳥氏系譜①義信 ②義忠 ③義氏 ④義盛 ⑤義勝 ⑥義正 ⑦義光 ⑧義信 ⑨義則 ⑩光顕