赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

赤生津安部下屋敷から隠し念仏指導者「鍵屋五兵衛」に関する古文書?

赤生津安部の下屋敷所蔵の安部系図とともに古文書が現れた。歴史遺産課高橋さんに聞くと「隠し念仏」に関係あると。安部家との関係は、これから調査。

 

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コトバンク】出典 朝日日本歴史人物事典 ㈱朝日新聞社/朝日日本歴史人物事典について

 

鍵屋五兵衛

江戸中期のかくし念仏の指導者。京都の人。法名は善休。かくし念仏は浄土真宗の流れをくむ念仏信仰の一派で、即身成仏をめざす真言系の秘密念仏の要素もあるとされる。本願寺の「表法」とは別に、それが鍵屋に伝えられたとされ、極度の秘密性を重んじてきた。鍵屋2代の五兵衛が組織の大成者とされる。加入儀式の「お取り上げ」を受けた、陸中国胆沢郡水沢(岩手県水沢市)の長吉や山崎杢座衛門らによって仙台藩などに広められたが、宝暦1年(1754)に2人が磔刑に処されるなどの弾圧を受けて地下に潜行した。

 

 

 

 

【滝沢村誌】

https://www.city.takizawa.iwate.jp/contents/sonshi/page05_chapter4.html

伊達主水殿家中小姓組  山崎杢左衛門

 其方儀浄土真宗にこれ有り、一念帰命の法の由にて、通りの六十六部から授り、人にも教え、真宗にて文章と称える書冊の説法を行い、全く邪法ならざる旨を申紛らしているが、浄土真宗正念寺、正楽寺の申すには、其の教方は皆真宗の教義ではなく、却って、本山の制禁する所であると申述べている以上は邪法に決定した。

 其方俗の身分として仏間を作り、文章を語り聞かせ、第一在々所所を翔け歩き、一念帰命の信心決定の法にこと寄せ、諸人を進め、他の疑いを避けるため、真宗の出家に帰依せしめ、一応の同行という。追て其方へ帰依するに及んで、其の同行と称し、脇へ洩し聞えることを恐れ、其法に蓮如聖人から初めて俗につたわったもので、同流の出家にも聞かすまじき由約束させ、帰依する者を山中に引入れ、或は土蔵に会し、如来絵像を掛け、並に蝋燭を立て息をかえさず、助け給えと教え、甚だ精神を疲らしめ、既に無症(證)に成った時は、手ずから蝋燭を取って口中を見、成仏疑いなき由と称し、大いに人の信を起し、邪法を以って数郡の百姓大勢を誣(いつわ)らかし、御政事を害し、非道の重科たるによって其所に於て磔(はりつけ)に行われるものであると判決した。

 隠念仏は岩手県に起った宗教ではなくて、外から入って来たものである。その所伝はいろいろで、必ずしも一定してはいない。或る説には親鸞常陸に在住中那賀の平太郎に伝えたのが始まりだという。或は親鸞の子善鸞会津東山に来て初め、それから如信に伝え、近世になって白河侯に伝え、所謂大網派がその源流であると説いているものもある。所謂水沢派と称せられる山崎杢左衛門の流れを汲む者は白河侯からその盟友留守家に伝わり、その藩士山崎に伝えられたともいっている。

 これらの起源は皆鎌倉期の事であるが、近世になって岩手に普及した隠念仏の起源を見るとこれ又色々である。たとえば水沢在の隠念仏の一派である渋谷地派の所伝では、墨屋仁兵衛という旅人が五郎八・長吉・新兵衛三次右衛門の四人を長吉の土蔵で「御取揚」をした。それから四人は仁兵術と共に江戸に上り、更に京都に上って鍵星卯兵衛書休に会い、更に二度目には長吉が先達となり、山崎杢左衛門・勘兵衛・三次右衛門・教詮坊の四人が京都に上り、内二人が御取揚を受け、水沢地方の導師を許され、親鸞の絵像を貰って帰国し善知識となった。

 この時渋谷地教詮が一番老体なので絵像を安置し、杢左衛門が導師となり、長吉が御脇、五兵衛・新兵衛・勘兵衛が世話方になり、水沢地方の隠念仏の元祖となったのである。この墨屋仁兵衛は明治四年(1767年)におこった御庫念仏と関係があるから、近世の岩手の隠念仏は江戸の隠念仏の流れを受けたものと見られる。江戸の隠念仏の背後には京都の鍵屋があり、全国的に布教していたのであるから、これは京都の流れを受けたものといえる。処が水沢に鍵屋派の外に大網派がある。これは親鸞の子善鸞が父の名跡を継ごうとしたが、親鸞の直弟子等が強固な教団を作っていたので、遂に善鸞の教義を異安心として排斤したのである。水沢に入って来た隠念仏には京都鍵屋派のものと大網派との二つの系統があり、後に混淆し大網派を主とするか、鍵屋派を主とするか、その度合によって細かな差異を生じ、色々な分派を生ずるようになった。今でも隠念仏には色々な派があって、お互に相手をにせだといっている。

 宝暦四年(1754年)山崎、長吉の処罰によって水沢の隠念仏が弾圧された時、法網から脱した善知識達は各地に潜入し、南部藩内の渋谷地派・紫波派・順証派が出来たのはこの頃と推定される。