赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」。さらに阿弖流為時代にさかのぼり、祖先安倍高丸を追う

2025-04-01から1ヶ月間の記事一覧

300年代初頭の畿内の争いで物部氏が胆沢へ、450年角塚古墳の主となり、587年物部蘇我氏争いで鳥取が胆沢へ

(著者)奥羽山脈にいたタモノキ族のみでは、畿内との文化交流は難しいと見て、やはり、畿内から落ち延びた物部氏が胆沢を開拓し、主となったのではないか。その後、アラハバキなど原住民や移住者との対立が激しく、衰退したものであろうか。 300年代初頭 畿…

7世紀以前、邪馬台国を模した「日ノ本国」には前方後円墳。5世紀の角塚古墳は日ノ本の象徴か

(著者)陸奥国三春藩の第9代藩主秋田孝季(あきた のりすえ)によると、邪馬台国の旧臣が移住した東北には、多くの古墳があったという。図には前方後円墳なるものも見られている。邪馬台国の文化が引き継がれて、これら古墳が築かれたとみるか、南からの勢…

国史空白に「日ノ本国(ひのもとこく)」伝説。もみ消されようとする蝦夷の国

(著者)日ノ本の国は、ナガスネヒコなどが、日向族に追われ、東北に落ち延びた際に、原住民と混血し、文化や軍事、産業面で強大化した国といわれる。5世紀までは、国史がなく、証明されにくい国ではある。ナガスネヒコの武勇を誇りに系統は続き邪馬台国を…

胆沢おろへしのタモノキ族は「阿蘇部族」と同族か

(著者)胆沢ダム周辺にタモノキ沢があり、2世紀~5世紀まで、タモノキ族がおり、熟皮工芸を生業に生活していた。国史のない時代で記録は限られるが、蝦夷といわれる、狩猟を中心とした生活を営んだ阿蘇部族ではないか。 胆沢開発史60 太母鬼一族胆沢に移…

奥州安倍氏は、朝廷の陸奥開拓に協力か反対か。貞任の兄「日井」の由緒に安日と長髄彦

(著者)東北を開拓するために攻め込んできた朝廷側に対し、饒速日命の後裔である安倍氏の祖先の過ちを詫びて、朝廷に味方する。その印として、安倍比羅夫の安倍氏を名乗ることとした。こうして、奥州安倍氏は、陸奥開拓に全面的に協力する。当時は、秋田方…

掃部長者の詩で唄われる安倍致東(あべちとう)

安倍致東(あべちとう)は、奥州安倍氏の祖先とされる人物で、「日下将軍」の称号を持つと伝えられています。彼は蝦夷征伐において功績を挙げたとされ、奥州安倍氏の始まりに関わる伝説的な存在です.この称号は、蝦夷の反乱を鎮圧した功績を評価されて授けら…

爵と姓を持つような勢力(角塚古墳の主後裔)。それを侵略しようとする勢力は、タモノキ族か【新説】

(著者)「田村麻呂と阿弖流為93」のおろしべ公を襲う「狄従」とは誰がを紐解くことで、角塚古墳の主が見えてきそうである。なぜ、古墳の主が衰退していったか。 胆沢開拓考によるタモノキ族の存在が大きいのでは。朝廷の開拓に理解を示すか、反対するかの勢…

645年から902年は、胆沢郡に苛政、飢餓、戦争等の惨状がしきりといえども、朝廷の開拓方針は奏功し、興産が増強した。

(著者)移民により胆沢郡の人口や郡を増やし、産業を増やしたという。 京都の高貴な存在が、東北の富を奪い、何もできなくなる状態にしたという。 東北開発史129 討伐に伴ふ移民拓殖 故に蝦夷大征伐も其一手段にして、主とする所は天ノ富命の遺圖の継承にあ…

阿倍比羅夫に安倍姓を与えられたのは、秋田の蝦夷首長「齶田蝦夷恩荷(あぎたえみしおんが)」。子孫は安倍頼良、貞任となる

安倍・安部一族(日本家系家紋研究所)67 (四)阿部比羅夫が男鹿地方を征したとき、齶田蝦夷恩荷なる者、投降して小己上の位を授けられる。この子孫奥州の六郡を領して東夷の酋長となる。忠頼、忠良をへて頼良に至ると。 (五)神武天皇と戦いし長髄彦の兄…

なぜ角塚古墳(550年)に象徴される支配者が、存続しなかったか。大きな謎のカギは、安倍氏の蝦夷征伐(658年)

(著者)角塚古墳に象徴される支配者は、大和からきた勢力で、現地の蝦夷との軋轢で、争いが絶えず、これを平定したのが安倍氏ではなかったか。そのため、支配者の政権は短命となったのではないか。 胆沢開発史40 644年 物部氏と鳥取氏は東北にきた 未開拓地…

奥州安倍姓が与えられたのは、蝦夷征伐で手柄をたてたため

「会津旧事雑考」では、紀元前97年の時代に安倍姓があたえられたというが、5.6世紀の出来事と思う。奥州の初代安倍氏は蝦夷征伐で手柄を得たとある。 隠された物部王国「日本」126 崇神帝の時代に蝦夷が叛乱を起こしたので、大彦命の子の安倍河別命(かわわ…