赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」。さらに阿弖流為時代にさかのぼり、祖先安倍高丸を追う

2025-02-01から1ヶ月間の記事一覧

角塚古墳は、胆沢公の祖

胆沢開発史39 朝廷と交渉をもった政庁が置かれる 名取郡以北に、原住民の中ですぐれている者を朝廷の出先機関として任命したのが、・・・胆沢公の祖(角塚古墳)と思われる。 8世紀は胆沢郡以北を胆沢公阿奴志古、胆沢川以北の分郡した江刺郡(金ヶ崎方面)…

蝦夷に初めて「君姓」は、「邑良志別ノ君」710年

邑良志別君宇蘇弥奈(おらしべのきみ うそみな)は、奈良時代の東北地方の蝦夷(えみし)の族長です。彼は陸奥国(現在の岩手県)に住んでおり、朝廷から第三等の爵位を与えられました2。 彼の名前はアイヌ語の「オヤシベ」(精霊・鬼)に由来するとされ、後…

飢饉と洪水から生まれた掃部長者伝説。角塚古墳周辺の洪水と生贄伝説とは別の物語

若柳村、鳥取村、上葉場村などは、水路がなく湿地により水田が行われてきた。 1189年頃から藤五堰の開削が本格的に進められた。やがて、農業が盛んになり、掃部長者が現れた。 しかし、1259年の飢饉により村に多くの死者が出た。掃部長者は、備蓄米を衆人に…

掃部長者の火災と、止々井沼の大蛇生贄は別話。大蛇は「藤五堰」の氾濫とみて、長者妻の呪いではない

【著者】 掃部長者の火災は1262年の事実で、妻は同年に亡くなる。 死後19年後に止々井沼の大蛇の生贄がある。 昔話では妻の呪いで大蛇に化けると続けているが。掃部長者火災と、止々井沼の大蛇の生贄は別の話ではないか。止々井沼の大蛇は、このころつくられ…

【胆沢郡以北】胆沢公阿奴志己(いさわのきみ あぬしこ)の【胆沢川以北】胆沢公毛人(いさわのきみ けひと)の祖が角塚古墳

胆沢公阿奴志己(いさわのきみ あぬしこ)は、古代東北地方の人物で、蝦夷(えみし)の族長の一人です。彼の名前は『類聚国史』という歴史書に記録されています。胆沢公阿奴志己は、陸奥国府(多賀城)に使者を送り、王化に帰したいと申し出ましたが、伊治村…

1189年「藤五(實昌)堰」開鑿が、掃部長者の洪水(1281年)に起因したか

600年頃 角塚古墳が造られる。朝廷の開発が進み、すでに稲作が発展していた。 1059年 前九年合戦安倍氏滅亡。安倍井殿が佐倉河に残る。のちの掃部家 1189年 藤五堰が開鑿(若柳白岩(永徳寺小歩)から若柳、南都田、佐倉河、水沢へ灌漑) 胆沢町史Ⅵ 15P 1262…

【番外】奥州市の「飯倉氏」新たな由緒

飯倉氏由緒 留守家家臣飯倉氏(現奥州市)は、「御広間御番」「御従」「大番組」「上伊沢代官所役人」であった。豊臣秀吉の奥州仕置き1590年以後から留守氏家臣として世襲により2百年余りの間仕えた。虚空蔵小路に住み、水沢城に奉公し、菩提寺は水沢寺小路…

【番外】留守家家臣飯倉家(胆沢)は、「御広間御番」「御従」「大番組」「上伊沢代官所役人」であった。

奥州留守氏の研究148頁 飯倉氏 葛西氏家臣飯倉対馬(つしま)の子の但馬が政景代に留守家臣になったもの。西磐井郡流荘金沢邑の飯倉城にあったのが起源である。 ※留守氏家臣系譜(八幡家蔵)109頁 大番組三番飯倉利右衛門家とその別家飯倉半之允家。 ※允(じ…

公姓を有する古代蝦夷の人名

古代の蝦夷(えみし)の人名、特に女性の名前を知りたい。蝦夷の男性の名前は「アテルイ」や「モレ」、「あ... | レファレンス協同データベース 資料1(pp.152-154)に、「(前略)政府側が蝦夷の族長層に対して位階や君(七五九<天平宝字三>年以後は公の文字…

蝦夷にはじめて君の姓(朝廷からの姓)を与えられたのは、710年「おろへしの君」。胆沢ダムのおろへし神社に祭る神

蝦夷にはじめて君の姓(朝廷からの姓)を与えられたのは、710年「おろへしの君」。胆沢ダムのおろへし神社に祭る神 胆沢開発考54 続日本紀に「巴良志別ノ君(おろへしのきみ)」 (著者) 於呂閉志神社(おろへし)のはじまりである。胆沢川から堰を、水田を…

高句麗系出雲族「タモノキ」と物部氏との関係は

COPI 高句麗系出雲族と物部氏の関係については、古代日本の歴史において、高句麗からの渡来人が物部氏と関連していたとされています。物部氏は、古代日本の有力な氏族であり、特に武器や工芸に関する技術を持っていました。高句麗系の渡来人が物部氏に加わり…

タモノキの居たところ

大墓公(タモノキ)阿弖流為のタモノキは、タモノキ一族というものである。朝廷に追われて、たどりつたところが胆沢か。 胆沢史開発史46 水沢羽田 田茂山 水沢佐野 玉貫 水沢満倉 玉ノ木 胆沢下嵐江 タモノキ沢 江刺角掛 玉ノ木 江刺伊手 玉川 など

角塚古墳の被葬者は太母鬼(タモノキ)の祖か

(著者)110日本武尊が東征の際に、蝦夷を引きいるタモノキらが阻んだ、やがて討たれている。そのタモノキ一族が、胆沢ダム付近に移り住み、農業を開拓し、胆沢平野に携わる。やがて、畿内からくる、様々な移住民と、朝廷の圧力から争いとなった。タモノキが…

角塚古墳時代直後、奥州は乱れ安倍安東(658年)が平定する

津軽にいた安倍氏祖先は、胆沢で移住民との争いが絶えない様を見て、胆沢に移住し平定したという。この功績などから安倍比羅夫に安倍氏の姓をいただいたのではないか。 ところで、誰と誰の争いというと、角塚古墳を立てた朝廷側の圧力と、被葬者ら一族の間で…

角塚古墳(5世紀後半~6世紀初頭)時代には、奥州安倍氏の姓ない。物部氏もまだ来ない

角塚古墳が造られた時代(5世紀後半~6世紀初頭)は、蘇我氏物部氏の戦い(587年)の前であり、物部氏はまだ、東北に逃げていない。644年に物部氏と鳥取氏は東北にきたと考えられる。 安倍比羅夫の秋田征伐(658年)もまだであり、奥州安倍氏の姓もない。 と…

安倍河別命の時、安倍姓があたえらえたこと

安倍姓があたえられた時期の説は、二つある。 ①安倍比羅夫(658年)に、安東が与えられた。 ②阿倍河別命(武渟川別命)(5~6世紀)に、安東が与えられた。 2回あると見るか、どちらかが誤りと見るか 安東は、どの時代の人かと云うと、①比羅夫の時代である。…

物部氏が蘇我氏に敗れ、東北に落ち延びたのが644年

秋田物部文書伝承162 物部氏が蘇我・物部戦争に敗れた後、その一族が東北に流れてきたことは「東日流外三郡誌」にも記されている。この年は西暦644年で蘇我・物部戦争の57年後であるが、いまだ朝廷側の物部氏への追及は厳しく、東北の地まで落ちのびなければ…

奥州安倍氏が安倍氏を名乗るはじまり(658年頃から)

佐倉河の歴史437 朝廷は安倍比羅夫を征夷大将軍に任ず 安日の子孫は皇軍に加し臣下に列ししたい旨を申し出たところ早速勅許を賜り先陣に馳せ参じ勝利に導いた 安倍比羅夫は殊の外喜び、安東に安倍の姓を与えた。 胆沢郡誌256 高山掃部長者の事績 願わくは忠…

安倍氏の出自 信憑性

COPI 安倍氏の出自については、いくつかの説がありますが、信憑性については議論の余地があります。 神武天皇に殺された畿内の王長脛彦の兄、安日彦を始祖とする説:『平泉雑記』などによれば、安日彦が津軽に亡命したことを安倍氏の発祥としています。しか…

「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて 第七報 葛西氏没落後に白鳥村舘から赤生津に移住した安倍肥前と、葛西家臣安部小次郎が同一人物であることの再検証

COPIROTより 第七報の研究は非常に詳細で、多くの要素を再検証していますね。以下に要点をまとめます: 安部小次郎と安倍肥前の同一性の再検証: 以前の研究では安部小次郎と赤生津安部氏の初代が直接的な関係にあると考えられなかったが、新たなデータに基づ…

前九年合戦、安倍氏一二柵の新たな視点 ― 比與鳥柵と鶴脛柵の所在地を追って ―

COPIROTより この研究は「前九年合戦」における安倍氏の一二柵のうち、比與鳥柵と鶴脛柵の所在地に焦点を当てています。主なポイントをまとめると以下の通りです: 研究目的と方法: 清原氏が安倍氏の姻戚であったのに対して、急に敵対するようになった経緯を…

捕鳥師氏に匿われ奥州を転々として隠れ住んだ秋田物部氏

1.秋田物部氏のルーツと私|株式会社モノべエンジニアリング 644年中央政界で大連として君臨していた物部守屋は新興勢力の蘇我馬子の奸計で夜襲にあい一族は殱滅されたとあるが守屋の一子那加世(秋田物部氏の初代)は家臣の捕鳥男速に連れられて各所に隠れ…