赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

安倍正任、家任、則任は三つの柵に分散、義家軍は軍を分かち差向ける。作戦の指揮は貞任か

 

安倍氏の親族である清原軍(秋田県)が官軍を安倍氏の城柵に誘導する。清原軍は、安倍氏の軍事作戦を知る。敵軍清原氏の従弟(母親が清原氏)である宗任、正任ははじめから逃げる覚悟であった。母親が清原氏でなく、金氏の安倍貞任、重任、則任がおもに官軍に立ち向かう。安倍軍は分散し東西南北に散り、分裂した追討軍と戦いながら、厨川に向かう。

「貞任は敗北を覚り安倍一族を逃し、黒沢尻を焚き、厨川へ籠る」

貞任は、子孫を守るため、安倍氏血族を陸奥の東西に逃がし、敵軍をひきつけながら迂回し、時間稼ぎをして厨川へ進み、そこで死を覚悟した。貞任にひきつけられた義家軍は、真っ先に厨川へ北進、敵軍を分散させるため、則任は、厨川から南方に逆進し、比與鳥・鶴脛へ別れ、正任は黒沢尻から秋田へ逃げる。境講師良照は、胆沢から秋田へ逃げた。官軍は方々に散ってゆく、安倍軍を追って城柵へ向かった。

貞任を追う義家軍の進撃する城柵の順は、①衣川、②鳥海、③黒沢尻、④厨川である。この後に、修理景道・荒川太郎軍は、比與鳥七郎則任を追い、⑤比與鳥、⑥鶴脛を攻める。この時安倍軍は、厨川を抜かれ戦意喪失し、比與鳥柵で降参、鶴脛は逃亡し空城となる。

この作戦の指揮は貞任がとったものと考えられる。

 

前九年外史、地方史

安倍頼時の弟「境講師良照」は、天台宗講師。陸奥の天台宗は安倍氏からか

極楽寺北上市稲瀬町)に境講師が任期中在住。その後胆沢(胆沢ダム)「僧寺」在住。前九年合戦では、小松柵(一関)を守るが、胆沢の「小松の谷木」から秋田街道通じ秋田県大仙市の「唐松城」へ逃げる。義家軍に攻め滅ぼされる。

貞任を追う八幡太郎義家軍のルートは①衣川館から馬留(胆沢ダム)、②衣川館から高山(水沢佐倉河)、③瀬原柵から鳥海柵、④東街道(生母、黒石、江刺)

貞任を追う八幡太郎義家軍のルート

①衣川館から馬留(胆沢ダム

衣川館→一首坂→兎口館(胆沢愛宕)→大歩→小歩→永徳寺→首無沢(金ヶ崎)→門ヶ城(愛宕原・愛宕小学校)→法願館(鹿合・胆沢愛宕)→猪鼻館・栄の花(胆沢ダム記念館)→橋渡し→矢尽山(ひめかゆ)→馬留(胆沢ダム)→貞任は北へ

胆沢町史Ⅵ4-287P

 

①-2 「境講師良照」を追う義家軍(衣川館から馬留)

小松柵(一関)→小松の谷木(良照家族住・胆沢ダム)→矢尽山(前九年合戦で焼け尽し)→僧寺(境講師良照 住寺)

→出羽陸奥の国境(秋田街道・大師開通の道)→唐松城(秋田県大山市 境講師居住、前九年で落城)

胆沢町史Ⅱ古代中世編-12P

 

②衣川館から高山(水沢佐倉河)

高山「盲目の井殿」へ向かう義家

衣川館→養ヶ森(前沢上野原)義家が的場→簾森(前沢上野原)義家軍が休む

胆沢町史Ⅵ4-322

前沢町

 

③瀬原柵・大麻生柵から姉体・真城・水沢

衣川柵(並木前)→瀬原柵(衣川郵便局)→照井館陣場(白鳥 古戦場)→安倍館(目呂木 古城 白山 古戦場)→大麻生柵~白山神社→下姉体大槻(八幡堂に義家軍で黒石町鵜木柵貞軍と対峙)→大壇大塚(姉体町)

→大壇(水沢真城堤尻)古戦場→水沢常盤(中陣場)→塩釜(水沢石田、水沢矢中)古戦場

鳥海柵

※姉体の歴史34

 

④東街道(生母、黒石、江刺)