赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

2024-04-21から1日間の記事一覧

則任の妻は、「土師ノ中納言敏素」息女という。中納言は閣僚であり、この時代に陸奥に来た閣僚の子孫は?

則任の妻は、「土師ノ中納言敏素」息女という。これは、仙台叢書の野史にある。 中納言は閣僚であり、この時代に陸奥に来た閣僚の子孫は、菅原道真氏関係の子孫しかいないのではないか。これは著者の意見だが、900年代に菅原道真氏の妻が、現奥州市前沢生母…

仙台叢書には、①比與鳥柵は白鳥舘、②列女則任妻は白鳥舘東の北上川の藻屑となる

前九年合戦の正史を覆すようだが、仙台叢書には、比與鳥柵を衆人が白鳥舘といっている。比浦柵の項でもそうであえる。 則任は、白鳥舘に籠城し官軍と戦い、加藤修理景道・清原荒川太郎に攻め落とされるとある。則任の妻は、所々の柵攻め抜かれ、白鳥柵の敗亡…

前太平記の「安倍則任の恋物語」とは

(著者) 則任の妻は、敗戦により敵軍の妻に差し出されるのを嫌がり、夫のためにも、自害を選び、三歳の子とともに、堀の水に沈んだ。列女と云われる所以となる。 前太平記には、則任と妻の出会いが描かれている。妻は、「土師氏」の子孫というが詳しくは分…

「比與鳥柵」もうひとつの擬定地 江刺稲瀬「正源寺」。「兵部館」「比浦の柵(比浦六郎家任)」ともいわれる。

前太平記の「安倍則任の恋物語」とある。 えさしの歴史 155P 「岩手県管轄地誌」には、照沢村の條に、東舘、西舘と言わずに、一を安倍五郎家任の鶴脛館、一を七郎則任の居所比与鳥館となし、同所にありとしている。 ・・・シロトリの訛称が、他地方から来た…

黒沢尻柵跡

前九年合戦の戦場か 北上市「相去城」

安倍頼時弟の境講師良照は、天台宗定額寺(官寺に次ぐ)極楽寺(北上市稲瀬)の講師

貞任の兄盲目の井殿の屋敷跡(水沢佐倉河)。子孫は掃部長者伝説

前九年で井殿は盲目のため無罪で生き残る。胆沢愛宕に多い「安倍家」は、井殿の家臣一族

姉体町は、前九年合戦戦場。「大壇」は兵士の墓

義家と貞任が戦う姉体町宿 義家の陣場となった姉体町の宿場。黒石町鵜木城の貞任と戦う。跡には八幡宮が

胆沢愛宕の鹿合城は、砂鉄採取と鍛冶。舞草刀の髙橋一族がいた伝説

胆沢愛宕の鹿合城は、砂鉄採取と鍛冶。刀もつくられたか

貞任を追う義家「大歩」「小歩」は、胆沢川の重要な分水口。貞任、宗任が胆沢平野開発か

天台宗講師の境講師良照は、矢尽山「僧寺」(胆沢ダム)に居た

矢尽山「僧寺」 胆沢ダムからひめかゆ温泉の山 義家が貞任と良照を追い、僧寺の山を焼け尽したという。矢尽山という ※胆沢町史

前沢白山「六日入城」は上麻生柵の予備城

貞任を追う義家「黒沢尻難攻不落」で一夜舘(北上市稲瀬)に陣をはる

安倍正任、家任、則任は三つの柵に分散、義家軍は軍を分かち差向ける。作戦の指揮は貞任か

安倍氏の親族である清原軍(秋田県)が官軍を安倍氏の城柵に誘導する。清原軍は、安倍氏の軍事作戦を知る。敵軍清原氏の従弟(母親が清原氏)である宗任、正任ははじめから逃げる覚悟であった。母親が清原氏でなく、金氏の安倍貞任、重任、則任がおもに官軍…

安倍頼時の弟「境講師良照」は、天台宗講師。陸奥の天台宗は安倍氏からか

極楽寺(北上市稲瀬町)に境講師が任期中在住。その後胆沢(胆沢ダム)「僧寺」在住。前九年合戦では、小松柵(一関)を守るが、胆沢の「小松の谷木」から秋田街道通じ秋田県大仙市の「唐松城」へ逃げる。義家軍に攻め滅ぼされる。

貞任を追う八幡太郎義家軍のルートは①衣川館から馬留(胆沢ダム)、②衣川館から高山(水沢佐倉河)、③瀬原柵から鳥海柵、④東街道(生母、黒石、江刺)

貞任を追う八幡太郎義家軍のルート ①衣川館から馬留(胆沢ダム) 衣川館→一首坂→兎口館(胆沢愛宕)→大歩→小歩→永徳寺→首無沢(金ヶ崎)→門ヶ城(愛宕原・愛宕小学校)→法願館(鹿合・胆沢愛宕)→猪鼻館・栄の花(胆沢ダム記念館)→橋渡し→矢尽山(ひめかゆ…