赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

2024-04-20から1日間の記事一覧

貞任の妹の白糸城(金ヶ崎) 八幡太郎義家に恋して亡くなる 義家捕虜伝説も

前九年合戦の小松柵 境講師が守る 境講師は胆沢ダム小松を通じ秋田唐桑城へ逃亡

貞任を追う八幡太郎義家の足跡 胆沢堀切明神神社

貞任を追う八幡太郎義家の足跡 胆沢「替馬壇」。義家の馬を葬る

鶴脛柵は江刺稲瀬鶴脛台 厨川落城ときき兵は逃亡

鳥海、厨川落城後に、比與鳥、鶴脛が攻められる。はじめは、比與鳥で則任が奮闘するが敗れ、次に鶴脛に行くが、恐れおののき逃亡した。 鶴脛城に城柵はあり、木や岩が投げられないか注意しながら登ったというから、ある程度高台にあるはずである。

前九年合戦八幡太郎義家の足跡「衣川 一首坂」

前九年合戦で宗任、正任が逃げる理由は、官軍に寝返った従弟の清原氏が原因

宗任、正任の母は、清原氏であり、敵である従弟や親戚に追討される。 貞任、則任、重任の母は、金氏であり、清原氏と直接の血縁関係にない。官軍、清原氏に殺されたのは貞任、重任である。

比與鳥柵は白鳥舘か 城から木や岩を投げ落とす高さの城は

白鳥舘本丸の北側は崖で、登ろうとする官軍に木や岩を投げ落とせるには十分な高さかと。 白鳥舘は南側は平坦地で攻められやすいが、北側の崖からは攻めにくい。 地方史から見ると前九年合戦で官軍は貞任を追い、瀬原柵→照井舘陣場→大麻生柵→白山→姉体と攻め…

貞任を追う八幡太郎義家の東街道の足跡 「水沢黒石町 高清水」

慈覚大師と経塚「相去奈良山観音堂」