赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

比與鳥柵は白鳥舘か 城から木や岩を投げ落とす高さの城は

白鳥舘本丸の北側は崖で、登ろうとする官軍に木や岩を投げ落とせるには十分な高さかと。

白鳥舘は南側は平坦地で攻められやすいが、北側の崖からは攻めにくい。

地方史から見ると前九年合戦で官軍は貞任を追い、瀬原柵→照井舘陣場大麻生柵→白山→姉体と攻める。この時白鳥舘は素通りではないか。貞任はあえて攻められやすい白鳥舘を通らなかったのでは。

日本外史では、厨川の後で、比與鳥城、鶴脛城を倒すとある。

厨川あるいは、鳥海柵から官軍の一部が南側へ戻り白鳥舘(比與鳥柵)を攻めたなら北側の崖から攻めることになる。これも貞任の作戦ではないか。