赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

第7報の見直し

 

 

葛西氏没落後に白鳥村舘から赤生津に移住した安倍肥前と、葛西家臣安部小次郎が同一人物であることの再検証

 

(問題の設定)

前沢町史では安部小次郎は赤生津から赤荻に帰農し、一関側では赤荻に帰農の史料は未見という地方史の相違点を解決する。

 

(どのような方法で、問題を解明)

滅失した赤生津安部の由緒と、初代に関する系図を発掘し、赤生津初代「安部肥前」が、葛西家臣「安部小次郎」であることを立証する。

 

(論証 理屈と理由、「なぜそういえるのか)を説明する)

〇赤生津安部系統と赤荻安部系統は同一系統であるといえる。理由は、

・赤生津安部系統は、発掘した系図から衣川安倍を祖とし葛西氏に仕え、赤荻安部系統は、由緒から衣川安倍を祖と伝え葛西氏に仕えたことから、双方ともに系統は一致している。

 

〇赤生津初代の安部肥前と、赤生津から赤荻に帰農したと考えられている安部小次郎は同一人物であるといえる。理由は、

1 発掘された系図から赤生津には葛西家臣安部肥前の子孫が存在する。史料から安部小次郎とその子孫は赤荻に存在しない。

2 先祖の没年と1世代20年の遡及計算から安部肥前と安部小次郎は同年代に存在する。当時の赤生津村の御百姓書出には、安部家は1軒のみであることから、同一系統であるならば同一人物とみなされる。

 

(結論 どこまで解明できたのか、できなかったのか)

安部小次郎は赤荻に存在せず、安部肥前と安部小次郎は同年代であり、当時、赤生津安部家は畑屋敷1軒のみであることから、小次郎は肥前であることいえる。しかしながら、小次郎の祖父外記之介の祖先が、白鳥舘に居住していたという史料が今のところない。また、外記之介より以前の系図は存在していない。したがって、外記之介の系統が、赤生津安倍系図に当てはまることになるが、これについての検証が今後必要となる。

 

 

 

赤生津村七軒のうち安部家は一軒

岩手県史第4巻「赤生津村屋高七軒」(66頁)には、「畑屋敷=先祖安部十郎左衛門。兵庫。将監。三四郎。幸内。三左衛門。四郎兵衛。幸内。幸内。」と9代まである。赤生津七軒は今も語り継がれているが、この時代は二十一軒のうち逃亡や田河津金山遭難、殺人などで家断絶により七軒に減少した。岩手県史には「赤生津村には機長の末頃屋高(役屋らしい)二十一軒あったが、慶長十七年(1612)中に六軒が断絶し、(中略)結局宿屋敷(肝入)茂右衛門・畑三四郎・竹内門右衛門・箱根与平・西掃部・畑北助九郎・東源四郎の七人だけが残った。」とあり、このうち「畑三郎」が、畑屋敷安部家5代三四郎(兵部ともいい推定1645-1715年)である。