【修正箇所】小次郎感状は阿部随波が所蔵していたことを加えました。
「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて
第七報 葛西氏没落後に白鳥村舘から赤生津に移住した安倍肥前と、葛西家臣安部小次郎が同一人物であることの再検証
一 概要
豊臣秀吉の奥州仕置による葛西没落後に、葛西旧臣から伊達家の家臣となった一族は多い。百石以上の家臣を網羅した「伊達世臣家譜」では、三五家を数え(注1)、「磐井郡赤生津村安部」を祖とする阿部隋波(禄高三〇〇石)もそのうちの一家としている。
しかしながら、地方史では、赤生津に分立した葛西家臣安部小次郎は、天正一八年(一五九〇)葛西没落とともに一関赤荻に帰農したと考えられている定かでない。
昭和五〇年当時、前沢町史編集委員会では、赤生津安部家に、伝承や系譜が見当たらないとし、この前沢町史編集委員の調査結果をもとに、「前沢町史」では、安部小次郎は赤荻に帰農したと結論づけたのである。
しかしながら、令和三年五月の調査から葛西家臣である「安倍家系図」が発見され、赤荻下袋屋敷安部系図には、左近小次郎重綱は「赤生津安倍」と記載されていたことから「赤生津に帰農した」とする客観的史実の見直しに向けて検証をはじめるものである。
なお、この研究は、故安部徹良氏、故安部皓三氏、安部公良氏、森靜子氏による第六報までの研究を引き継ぐものである。
二 研究目的
「前沢町史」では安部小次郎は赤生津から赤荻に帰農し、一関側では赤荻に帰農の史料は未見という地方史の相違点がある。第七報は、「安倍家系図」と、「安部小次郎宛葛西晴信感状」の発見により、「安部小次郎は赤生津に帰農した」という見解に改めるための検証である。
三 研究方法
(一)安部小次郎と安部肥前は同一の系統であるかを、新たに発掘した赤生津「安倍家系図」から検証する。
(二)「安倍家系図」を紛失した理由が、奥州仕置とキリシタン弾圧であることを検証する。
(三)小次郎と肥前が同一人物であることを立証するため、それぞれの没年が一致するか再検証する。
写真1 安倍家系図 |
(四)「前沢町史」による「安部小次郎も赤荻(現一関市)に帰農した」という解釈を、「安部小次郎は、赤生津に帰農した」とする客観的史実の見直しに向けて検証する。
四 結果および考察
(一)安部小次郎と安部肥前は同一の系統であるかを、発見した赤生津「安倍系図」からの検証
- 白鳥村から移住した「赤生津安部肥前」の系統に関する史料の検証
ア 令和三年六月の調査により発見した「磐井東山赤生津邑畑家舗安倍家之系図」の検証
(史料1)安倍家系図
安倍家系図 磐井東山赤生津邑畑屋舗安倍家之経図 虫食古損候附書写候事 安倍頼時之七男比與鳥七郎則住衣川厨川両城落城シ而之後降人ト成 伊沢白鳥邑手類之舘二住居シ 先室厨川之堀二沈後 室ヲ女取ル 其子孫 同所 良久其後鎮守府将軍藤原之清衡ヨリ三代使エリ 髙舘落城シ而後 葛西臺破守清重家臣ㇳナリ拾七代使エリ 葛西落城城 手類之舘二住居不叶シ而 東磐井赤生津邑二移ス 其治代安倍肥前ト云フ 安倍肥前 伊澤白鳥邑手類之舘二住居不叶而 東山赤生津邑二移ㇼ 牢人ス 愛宕堂造立則此所住居也 安部市良左衛門義里 同苗肥前嫡子也 同邑比畑屋舗移 牢人也 |
図1 赤生津畑屋敷安部氏系図 |
写真2 |
この系図は、赤生津安部四代将監三男の「下屋敷」が所有し、二代市良左衛門義里(御百姓書出の名は十良左衛門で推定一五八五-一六五五年)までの由緒書であり、原書の写し書きである。概要は、先祖が安倍頼時の七男白鳥七郎則任であり、白鳥村「手類の舘」に居住し、藤原三代に仕え、葛西家臣となり一七代仕える。葛西家没落により「手類の舘」に居住できず赤生津に移住した。初代安部肥前は浪人となる。愛宕堂を造立しそこに居住した。二代目は安部市良左衛門義里は、赤生津村の畑屋敷に移住する。浪人である。
第七報研究では、葛西没落後に白鳥村のどの舘から赤生津のどこに移住したかを検証することから、白鳥七郎から藤原家臣、葛西家臣までの由緒の検証は今後の課題としたい。
まず、初代が住む愛宕堂という所は、生母青木地内にあり畑屋敷から東の束稲山に向かい六〇〇m地点の北上川と白鳥舘が見下ろせる高台にある。昭和年代まで畑屋敷本家や分家が代々参拝してきた。安部の神社、愛宕神社とも伝えられる。二代目安倍市良左衛門義里は浪人となり、御百姓書出では「十郎左衛門」という名で、現在の畑屋敷に移り住んだ。
イ 系図の「手類(てるい)の舘」は「照井舘」であるかの検証
問題は、白鳥村のどの舘から移住してきたかである。赤生津安部の祖が居住していた白鳥村「手類の舘」であるが、親類が書き写した系図には、「午類」や「牛類」の表記が見られており、「牛類」であれば水制の意味に変わる。奥州市歴史遺産課では手類之舘、牛類之舘とも未見とした。石巻市教育委員会では「史料には明らかに「手類之舘」とある。すなわち、白鳥村の中世城館・照井館を指すものと捉えるべき」との所見である。ただし、奥州市によると照井舘は未発掘であるといい、仙台領内古城・館第一巻には、照井館址説明略図に大手門や供養碑などあるが詳細は不明である。
ウ 白鳥村にある「照井館」「新城館」「白鳥舘」の住人
「岩手県史」第四巻「仙台藩管内・城館・城館主名及び在家表」の白鳥村の城館には、「白鳥城址(鵜ノ木)白鳥八郎行任のち白鳥治部少輔、天正中まで、のち天正中佐藤豊後岩淵伊賀、天文三田主計白鳥八郎、小野寺入道某(柏山伊勢守良従)照井館(太郎高晴 新城館 熊谷直胤一万一千刈加賜)」とある。
図2 安部氏関係図 系図から著者作成 |
このうち「新城館」は「照井館」の西にあり「前沢町史」では、白鳥村風土記に「右城主並年代不明、今は林となっている」とあり、歴史的事実を知る由もないとしている。よって、赤生津安部が居住した白鳥村の舘は、照井舘か白鳥舘と考えられる。「前沢町史」によると「照井館」は、「風土記」に「藤原秀衡の家臣、照井太郎陣場の由、伝えられている。」とあることから、秀衡の功照井太郎高春の居館跡と伝わる。照井太郎は、「岩手県姓氏歴史人物大辞典」では、「一関の磐井川流域を潤している照井堰の掘削を計画した人物。照井高直、または高春といい、藤原秀衡の臣であったという。照井氏はのちに葛西家に仕え、明応二年、磐井川から分水して南・北照井堰を完成した。」とある。これら舘の住人に赤生津安部が関係しているかどうかは今後の課題とする。
- 「赤荻安部外記之介」の系統に関する史料の検証
赤荻阿部家系図及阿部家由緒略記参照(阿部隋波考証 龍澤寺住職 塩釜素隆誌) その祖は遠く安部貞任にさかのぼるのであるが、後代外記之介に至って葛西晴信に仕え家老職に在り。上野、左近、大学、その次男讃岐に至り、葛西家は没落し、安部一族も分散したので仙北に逃れた。其の後磐井郡に帰り来たって赤荻下袋に住した。讃岐、清右ェ門の子、九左ェ門重直は小平治重貞(随波)の父である(注2)。
「伊達世臣家譜」平士「阿倍」(注3)(「東藩史稿」による口語訳) 姓は藤原(※1)、阿倍大学の次男讃岐を祖とする。その祖小次郎重綱(※2)というもの、葛西氏に仕えて天正の頃磐井郡赤生津に居り、五千刈の地を領し(※3)、天正十六年気仙の浜田安房守広綱の叛に当たり、戦功を立てて葛西晴信から感状(※4)をうけた。葛西氏滅ぶや、阿倍大学も流亡、ことにその嫡流は跡も詳でないが、次男讃岐は磐井郡赤荻に住み、その子を九左衛門重直(※5)と称した(伊達世臣家譜 東藩史稿(※6))。 |
(史料2)赤荻阿部家由緒と、「伊達世臣家譜」平士「阿倍」
ア 著者による検証等
伊達世臣家譜」平士「阿倍」は、安部小次郎の甥の孫にあたる仙台藩士「阿部随波」の系譜である。
(写真3)安部小次郎宛葛西晴信感状 石巻市役所所蔵 |
(※1)平成一二年度岩手県南史談会研究紀要第三〇集により平泉藤原泰衡の子孫である「赤荻・荻荘系譜」が公表された。藤原泰衡の嫡男は「良親」といい、荻荘氏家号の祖である。この系譜によると一六代正綱の娘鶴子が「安部外記之介」と婚姻関係にあり、さらには、一九代良久と「安部外記之介の孫大学の妹政子」と婚姻関係にある。「伊達世臣家譜」における阿倍氏が藤原姓を称する由来と考えられる。
(※2)「その祖小次郎重綱」(左近)とあり、大学の父と理解される系図が存在する。赤荻下袋屋敷系図には小次郎(左近)は大学の弟とあり、当調査でも下袋屋敷の初代外記之介から三代大学までの戒名や没年を確認していることから、葛西氏家臣団事典九頁「阿部氏系図」における「大学の父を小次郎とする表記」は、兄弟に修正されなければならない。葛西晴信感状は赤生津住人の小次郎がうけた。
(※3)安倍小次郎は、「天正の頃(一五八七年頃)磐井郡赤生津に居り、五千刈(八町歩)を領し」とあり、「岩手県史」第四巻(七一頁)の寛永一九年(一六四二)検地帳には、畑屋敷安部三四郎 四町七反四畝二七歩で持高三〆(貫)八五七文とある。小次郎が畑屋敷安部であるならば、所有地は五五年で半減したことになる。
(※4)「岩手県史」第三巻(一五六頁)に小次郎は「東磐井郡黄海村五千苅宛行、西磐井郡赤生津住人」とある。領地を与えられた黄海村には、移住した記録はない。「黄海村史」全(三四八頁)安永四年黄海村風土記代数有之御百姓書出によると、安部姓は存在していない。
原文には、「葛西晴信賜感状、今蔵ニ干稠賀之家」とある。山目村の阿倍家六代「稠賀」が感状を所蔵していた。「阿部随波考証二〇頁」によると「その後は裔の栄華は永く続かず次第にその邸宅を処分し、……。その後の人は、仙台の大仏前に、前掘の家宅を移し、その子孫は明治に及び、明治初年に阿部隼太という人が居た」という。晴信感状はこの頃に収集家の手に渡ったと考えられる。
令和三年五月の調査により、天正一六年(一五八八)安部小次郎宛葛西晴信感状を、石巻市教育委員会が所蔵していることを確認した。石巻市在住の収集家故毛利総七郎(一八八八-一九七五)が、石巻市に寄贈し毛利コレクションとなっている。石巻市では、「おそらく近代のある段階で毛利総七郎が購入したものと考えられる」と所見がある。
(※5)「伊達世臣家譜」阿倍には「讃岐子九左衛門重直、重直子小平治老號隋波重貞……」とある。山目銅台町屋敷三代の阿部隋波が仙台藩士となり伊達世臣家譜に掲載となる。
(※6)出典 岩手県南史談会研究紀要資料集(その二)復刊紀要一一九頁「阿倍隋波と仙台藩の庶民知行 及川大渓」掲載「東藩史稿」(一九一五年 作並清亮 編)による。
イ 現在の地方史における史料
地方史における赤生津安部氏祖「安部小次郎」は、葛西家に仕え、天正(一五七三-一五九二)中に赤生津に住み、葛西没落後に浪人となる。小次郎の兄「大学」が赤荻下袋に居住したことは明らかであるが、弟「小次郎」と子孫の行方は定かでない。
伊達世臣家譜では、「大学流落」とあり、葛西氏家臣団事典では、「没落して浪士となり嫡子大学の代に故地赤荻に帰農した(注4)」。阿部家由緒では、葛西没落後は、「上野、左近、大学、その次男讃岐に至り、葛西家は没落し、安部一族も分散したので仙北に逃れた。其の後磐井郡に帰り来たって赤荻下袋に住した」とある。
これらの史料をもとに、「岩手県史」では、「安部大学に至って、旧領地の赤荻に居住したものであろう」とし、「前沢町史」は、安倍小次郎重綱は、「赤生津を去り、先祖伝来の地赤荻(現一関市)に帰農している」としたものと考えられる。
「前沢町史」(昭和五一年発行)では、由来にある「大学の代に赤荻に帰農」を、弟の小次郎とともに赤荻に帰農したと解釈しているが、これは、昭和年代の調査時に、赤生津安部家の由緒書と初代を明記した系図を滅失していたことが原因で、小次郎と思われる人物が特定できなかったとが考えられる。
平成二三年岩手県南史談会研究紀要「安部外記之介論考~安部徹良氏論文と関連して~」で、一関市文化財調査委員小野寺啓氏は、「小次郎が赤荻に戻り帰農したとの史料は、一関側では未見である。葛西氏没落後は赤生津で帰農したと考えるのが自然ではなかろうか」という見解がある(注5)。当研究の第五報でも、代数有之御百姓書出(一関市史第七巻資料編(Ⅱ))の記録から、「小次郎」が葛西氏没落後、赤荻に戻ったことの根拠となり得る記述がないことを明らかにした(注6)。
さらには、当調査により赤荻下袋屋敷の阿部家系図にある「安倍左近小次郎重綱」は、「赤生津安倍」へと続くが、子孫の記載がないことを確認した。また、後に述べるように、小次郎と肥前の生存した年代測定によっても、同じ時代にいることが再検証により立証された。
これにより、安部小次郎は、赤生津に帰農したと結論付けることができる。
しかしながら、新たな赤生津安部系図には、白鳥村からの移住とあり、安部外記之介から安部小次郎まで、白鳥村舘に居住していた史料は今のところない。外記之介の領地は、赤荻ともいわれるが、実際は不明である。外記之介の出自は不明であるが、先祖は、赤生津安部肥前と同じく安倍頼時と伝えている。由緒書からいうと「安部外記之介」は赤生津に居住しており領地は不明、事績や先祖も明らかでない(注7)。
一関市文化財調査委員小野寺啓氏によると、安部外記之介が、宮田城の赤荻(荻荘)家と婚姻関係で赤生津から赤荻へ戻ったという説がある。
葛西没落後は、姻戚関係のある赤荻宮田城の荻荘家の地域に移住した。姻戚関係というのは、外記之介が荻荘家の娘婿であり、妻鶴子は荻荘家一九代の叔母にあたる。荻荘家一七代が葛西没落三年前の天正一五年に没し、さらには奥州仕置きで一八代が佐沼城で敗死しており荻荘家が危機を迎えた中、赤荻安部家から大学(小次郎の兄)の妹政子が荻荘家に嫁いでいる。なお、荻荘家は、藤原泰衡の唯一の子孫であり、現在まで三八代の系図(県南史談会研究紀要第三〇・三五集掲載)がある(注8)。
③安部小次郎と安部肥前は同一の系統であるかについての考察
葛西氏家臣団事典(一一頁)の赤荻安部氏では、「西磐井郡の阿部(安倍)氏は衣川阿部氏の末裔と伝わり、……」とあるが、「安部家系図及阿部家由緒略記」が出典であると考えられる。もう一方では、安部外記之介は、藤原泰衡の嫡男「良親」を祖とする荻荘家と血縁関係にある。外記之介の子孫で仙台藩士「阿部随波」は、藤原姓を出自としている。このことから、安部外記之介の系統は、衣川安倍氏の後裔を伝えるが、外記之介の子孫以降は藤原姓の出自をも誇示してきたと考えられる。
赤生津安部系統は、発掘した系図から衣川安倍を祖とし葛西氏に仕え、赤荻安部系統は、由緒から衣川安倍を祖と伝え葛西氏に仕えたことから、双方ともに系統は、同一である可能性が高い。
(2)「安倍家系図」を紛失した理由が、奥州仕置とキリシタン弾圧であることの検証
① 赤生津安部出自に関する史料を滅失とした理由
「安倍家系図」が本家畑屋敷や他の分家になぜ存在しない理由を述べなければならない。正確に言えば、これまで親戚の間には、口碑伝承や憶測の入った由緒、赤生津安部初代が抜けている系図、各分家の系図のみしか存在しなかった。
火災による系図の滅失も考えられるが、赤生津安部家では、親族間で系図を書き写して保存してきたと考えられている。令和三年五月の調査では、山ノ神屋敷と下屋敷が所有していた系図は、本家の畑屋敷、分家の長根屋敷、下屋敷、曽利屋敷、山ノ神屋敷などがありいずれも一〇代以上の系統、またはそれ相当で途絶えた分家もある。赤生津安部二代が書き写した「安倍家系図」を所有していたのは、下屋敷の分家であり、昭和年代で途絶え下屋敷に引き継がれた。
著者の大胆な推測ではあるが、正確な由緒が引きつがれない理由を、奥州仕置きの時代の豊臣秀吉による刀狩や兵農分離、切支丹弾圧などの影響の可能性はないかと考えている。キリシタンの伝承はないが、墓地調査から発見に至った。
② 豊臣秀吉の奥州仕置の影響
安部肥前の名で、葛西家臣として天正一八年(一五九〇)八月の秀吉の奥州仕置軍を迎え撃った、あるいは逃亡した史料はないが、肥前が小次郎であるならば、赤生津東舘の白鳥治部少輔とともに、参陣した可能性もあるのではないかと考えられる。当時は、秀吉の命令に逆らい小田原に参陣しない葛西家臣の居城は倒壊、追放され領地没収となっていた。記録は悉く散逸し、詳細の事績を知ることはできないという(柏山氏の没落から)。
奥州仕置きの後、豊臣秀吉は、磐井郡の金山を直接管理し、さらに年貢を賦課したことにより一五九四年(文禄三年)金山一揆は起きた。「産金村落と奥州の地域社会」によれば、「「ゴールドラッシュ」により諸国から堀子が集まり混乱や紛争が生じていたこと、その一方で、葛西氏の滅亡により被官の土豪層が滅んだり浪人化したため、年貢の立て替えなどの秩序維持機能が果たせなくなっていたことがあった(注9)」という。赤生津村東隣の田河津村にも産金がある。「赤生津村風土記屋高七軒之由来」によれば、赤生津村は二一軒であったが、慶長一七年(一六一二)から二七年間のうちに逃亡や田河津金山遭難、殺人などの家断絶により七軒に減少したという(注10)。
- キリシタン弾圧の影響
「前沢町史」の「赤生津村のキリシタン」では、赤生津荒屋敷に「赤生津村高人別改帳」が保存されており、そのうち貞享五年(一六八八)分に、赤生津村人口四九四人、うち類族一四人男八人女六人と書かれている。類族とは切支丹の子孫で、この改帳によると赤生津にもとキリシタン家族があったことがわかる(特に屋敷名を秘す)とある。
プライバシーの関係から人別帳からの確認は困難であるため、墓に記された墓字からキリシタンを特定する畠山喜一氏の近年の研究を調査に取り入れた。
切支丹墓字とは、類族が死後塩漬の上検視されるのを嫌い江戸奉行所に嘆願し、切支丹墓字を刻むことで検視を逃れるものときく(岩手県一関市東山町のキリシタン 真楽寺實水の建白書)。その墓字には「一 心 C(釣針状) 卍」などがある(注11)。
赤生津安部の畑屋敷・山ノ神屋敷・前畑屋敷の旧墓地には「釣針状のC」の墓字がある墓が二基発見された。そのうち一人は、享保一〇年(一七二五)の没年である。キリシタン本人ではなく類族の可能性もある。天正期まで赤生津村東舘の家老を務めた大石家の子孫大石喜清氏によると大石家もキリシタン類族となり、「寛永元年(一六二四年)不慮に系図等紛失」の記録がある。藩が没収したと考えられ、明治時代に収集家を通じて系図は戻ってきたという。
(写真4)赤生津安部家旧墓地のキリシタン墓字 |
以上から滅失した理由は、豊臣秀吉の奥州仕置とキリシタン弾圧の影響にあり、藩による子孫の詮索から、寛永年間に系図が没収されたことに起因するとも推察できる。
(3)小次郎と肥前が同一人物であることを立証するため、それぞれの没年が一致するかの再検証
項目 |
第6報による赤生津安部初代当主が居住した年の推測 |
第7報による赤生津安部初代の生没年の推測 |
逆算する年代 |
5代兵部(三四良)が御引竿を受けた1642年(生没年ではない) |
4代将監(惣右衛門)が組頭名簿(「岩手県史」4巻)により1625年生まれ |
1世代遡上年数 |
最小22年、最大26年 |
1世代20年 |
遡上年数根拠 |
「岩手県史」「この時代の人頭の1世代は22年~26年位」 |
・赤生津畑屋敷の世代間年数の平均 4代将監から戸籍で生没のわかる13代の間の平均「1世代間20年」 ・赤荻下袋屋敷初代から6代の平均 「1世代間21年」 |
結論 |
1538年から1554年の間(小次郎が居住し奥州仕置きで去る1590年よりほど遠い) |
初代肥前は、およそ1565年生、1635年没。小次郎の兄大学の没年1635年と一致。平均年齢は13代から19代の戸籍から平均70歳とする。 |
第六報の初代の年代を特定する計算方法の修正
赤荻下袋屋敷 安部家 |
赤生津畑屋敷 安部家 |
||||
代 |
名 |
没年 (戒名) |
代 |
名 |
没年 (推定) |
初代 |
外記之介 |
1590年 |
|
||
2代 |
上野 |
1612年 |
|
||
3代 |
大学(小次郎兄) |
1635年 |
初代 |
1635年 |
|
4代 |
1650年 |
2代 |
十郎左衛門(市良左衛門義里) |
1655年 |
|
5代 |
太郎兵衛 |
1675年 |
3代 |
兵庫(十郎左衛門義則) |
1675年 |
6代 |
對馬 |
1668年 |
4代 |
将監(県史・組頭年齢から1625生) |
1695年 |
7代 |
惣左エ門 |
1719年 |
5代 |
三四郎(兵部) |
1715年 |
(表1)「赤生津安部家の世代間年数の特定と、初代に遡る計算方法」の修正前後の比較 |
第六報「赤生津安部初代と小次郎の流落に直接的な関係は考えられない」という結論(注12)を、再検証から「同じ時代に存在する人物」と修正するものである。
第六報研究では、赤荻阿部家と赤生津安部家の先祖の生没年や世代間年数が不明な中での初代が生存した年代の特定であり、小次郎や赤生津初代の存在していた年代の算定に誤差が生じていた。
第七報研究では、赤荻阿部下袋屋敷の協力により先祖没年と小次郎の兄大学の没年の把握ができた。初代からの戒名碑の没年や旧墓地にある初代安倍外記之介、二代上野、三代大学(小次郎の兄)の墓石の没年も確認している。
赤荻系図は代数有之御百姓名簿書出(一関市史70頁)と一致し、赤生津初代肥前(白鳥から移住)は系図のみにあり、2代目以降から御百姓書出と一致している。 |
一方、赤生津安部家では、墓石からの没年が読み取れず、初代から一二代までの没年が不明であることから、一三代の戸籍の生没年と、「岩手県史」にある「組頭年齢」をもとに、年代の照合を行った。赤生津安部四代将監の生年が「岩手県史」四巻「赤生津村五人組及び組頭名簿(七九九頁)」に掲載されている。これをもとに、一世代の年数を、四代将監から
(写真5)赤荻下袋屋敷阿部家戒名 初代から五代まで夫婦戒名と没年 |
戸籍で生没のわかる一三代の間の平均とし、「一世代間二〇年」とするものである。第六報で用いた一世代年数は「最小二二年、最大二六年」で、「岩手県史」にある江戸初期当時の平均であった。
(表2)赤荻阿部家と赤生津安部家の先祖没年 |
四代将監の生まれ年から一代二〇年で遡ると、赤生津初代の生没年は推定一五六五年-一六三五年となり、安部小次郎の兄「大学」の没年一六三五年と一致することになる。安部小次郎は、赤生津初代の安部肥前とほぼ同じ年代に存在したことになる。これにより、第六報「赤生津安部初代と小次郎の流落に直接的な関係は考えられない」という結論を、「同じ年代に生存した人物とみなす」ことへ修正する。
(4)前沢町史による「安倍小次郎も赤荻(現一関市)に帰農した」という解釈を、「安部小次郎は、赤生津に帰農した」とする客観的史実の見直しに向けての検証
昭和五三年発行「生母教育史」では前沢町史編集委員鈴木透氏が、「著者は、この安倍氏(安部小次郎)が、現在の赤生津安倍氏と何か関係があるのではないかと、いろいろ探索したが、関係ある文書記録も、また伝承も遂に見出すことができなかった」(注13)と述べ、昭和五一年発行の「前沢町史」には、「安倍小次郎も赤荻(現一関市)に帰農した」という解釈にいたったと考えられる(注14)。
ところが、令和三年五月になり、赤生津下屋敷から白鳥村舘から赤生津に移住したという葛西家臣である「安倍家系図」を発見することになる。
史料から葛西没落時に赤生津に存在する安倍姓の葛西家臣は一人である。寛永一六年(一六三九)検地では、赤生津には七軒「宿屋敷(肝入)茂右衛門・畑三四郎・竹内門右衛門・箱根与平・西掃部・畑北助九郎・東源四郎」ある。このうち「安部家」は、「畑三四郎」のみであり、畑屋敷安部家五代兵部(三四郎)である。また、伊達世臣家譜「阿倍」では小次郎が赤生津に八町歩を領していたが、寛永一九年(一六四二)検地では赤生津畑屋敷安部家に四町七反ほどの所有がある。
赤荻下袋屋敷では、模造紙大の分家を網羅した「赤荻下袋屋敷阿部家系図」があるが、安部左近小次郎重綱は、「赤生津安倍」と記載されている。一関市史など史料から赤荻に帰農した事実はない。
また、阿部隋波系統が所蔵していた「安部小次郎宛葛西晴信感状」には黄海村に五千苅を拝領とあるが、安永四年の御百姓書出に「阿倍・安倍・安部・阿部」のいずれの姓は見られず、黄海村に帰農はしていない。
したがって、「前沢町史」では小次郎は赤生津から赤荻に帰農し、一関側では赤荻に帰農の史料は未見という地方史の相違についての検証は、安部小次郎は赤生津に帰農した可能性が高いと結論付けるものである。根拠となる史料は、葛西家臣とする赤生津「安倍家系図」と、小次郎が赤生津安倍となった「赤荻下袋屋敷阿部家系図」である。
五 まとめ
第七報「葛西氏没落後に白鳥村舘から赤生津に移住した安倍肥前と、葛西家臣安部小次郎が同一人物であることの再検証」は、「安部小次郎は赤生津に帰農した」という検証から同一人物の可能性が高いと結論づける。
しかしながら、同時に祖父安部外記之介、父上野も、白鳥村舘の住人であることが立証されなければならない。
今後の研究課題は、白鳥村舘の住人である白鳥治部または民部少輔、照井太郎など葛西没落後に足取りが途絶えた家臣や、藤原時代に平泉の北方を守る武将の中から関係を見出す検証が必要である。
六 謝辞
研究論文第一報から第六報の著者と関係者の安部紀子氏、安部公良氏、森靜子氏、安部完良氏はじめ、史料提供やご助言いただいた赤生津の安部万王氏、安部勝氏、及川照男氏、大石喜清氏、赤荻下袋屋敷阿部郁夫氏、奥州市教育委員会高橋和孝氏、石巻市教育委員会泉田邦彦氏に厚く御礼申し上げます。
七 引用・参考文献
(注1)「葛西氏の興亡」(二〇一五年 一関市博物館)江戸時代の旧家臣四二頁
(注2)「復刊紀要第五集~第七集」(一九九三年 岩手県南史談会)阿部隋波考証一八頁
(注3)「伊達世臣家譜巻之十二(平士之部)」(一九七五年 仙台叢書)百三十六阿倍一一六頁
(注4)紫桃正隆「戦国大名葛西氏家臣団事典」(宝文堂一九九〇年一二月)一一頁
(注5)「岩手県南史談会研究紀要第四〇集」(二〇一一年七月 岩手県南史談会)安部外記之介論考二三頁
(注6)「岩手県南史談会研究紀要第四二集」(二〇一二年七月 岩手県南史談会)「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて(第五報)六九頁
(注7)「岩手県史第三巻中世編下」(一九七二年一二月 岩手県)一〇八頁
(注8)「岩手県南史談会研究紀要第三〇集」(二〇〇一年七月 岩手県南史談会)赤荻・荻荘系譜の一考察/「岩手県南史談会研究紀要第三五集」(二〇〇六年七月 岩手県南史談会)「続」赤荻 荻荘系譜の一考察
(注9) 池享 遠藤ゆり子編「産金村落と奥州の地域社会 近世前期の仙台藩を中心に」(二〇一二年一〇月 岩田書院)はしがき一〇頁
(注10)「岩手県史第四巻近世編一」(一九七二年一二月 岩手県)六八頁
(注11)「東磐史学第二七号」(二〇〇二年八月 東磐史学会 岩手県史学会東磐支部)東磐井郡 のキリシタン遺跡 畠山喜一 二五頁・三五頁
(注12)「岩手県南史談会研究紀要第四四集」(二〇一五年六月 岩手県南史談会)「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて(第六報)八〇頁
(注13)「生母教育史」(一九七八年一二月 生母教育史編纂委員会)二〇頁
(注14)「前沢町史中巻」(一九七六年七月 前沢町史編集委員会)一八四頁