赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

「比與鳥柵」もうひとつの擬定地 江刺稲瀬「正源寺」。「兵部館」「比浦の柵(比浦六郎家任)」ともいわれる。

太平記の「安倍則任の恋物語」とある。

 

えさしの歴史 155P

岩手県管轄地誌」には、照沢村の條に、東舘、西舘と言わずに、一を安倍五郎家任の鶴脛館、一を七郎則任の居所比与鳥館となし、同所にありとしている。

・・・シロトリの訛称が、他地方から来た人々に、ヒヨトリと聴取せられる可能もあることに注意を喚起して置きたい。

 

岩手県管轄地誌 554P

江刺照沢

古館  鶴脛館と云う 本村の中央字下臺にあり その昔安倍五郎家任之に居れりと云う

古館  比與鳥舘と云う 本村の中央字同所にあり 昔時 安倍七郎則任之に居れりと云う

 

仙台古城 29P

比良ノ館(比浦の柵)

のちに「兵部館」「俵岩城」などに区切られ使用された。

兵部館

比良の館の南端部、正源寺の裏山、現在墓地となっている一帯が兵部館の址である。

 

あづま海道 148P

比良の館跡

正源寺の裏山までのびた段丘一帯が館跡といわれている。現在山頂までは水田となっているが以前は土塁、水濠など縦横にめぐらされていたという。8-9世紀頃の古代柵と見られ、数々の土器が出土した。なお中世より南の一端を兵部館、北を俵岩城と呼ばれている。兵部館跡は現在の正源寺墓地一帯・・・

 

(著者)

比浦柵といえば、仙台叢書(のうじん・・・)436P では、胆沢の都鳥村、安倍六男比浦六郎家任でもある。