前九年合戦の正史を覆すようだが、仙台叢書には、比與鳥柵を衆人が白鳥舘といっている。比浦柵の項でもそうであえる。
則任は、白鳥舘に籠城し官軍と戦い、加藤修理景道・清原荒川太郎に攻め落とされるとある。則任の妻は、所々の柵攻め抜かれ、白鳥柵の敗亡したため、北上川に子とともに飛び込み藻屑となる。
とすると、則任妻は、正史では厨川で堀の水に沈むとあるが、前沢白鳥の白鳥舘の北上川で亡くなることになる。
陸奥話記では、厨川で戦が終結するが、外史(民間の歴史)では、厨川の後に、白鳥舘で敗北することになる。
これは、「陸奥話記の成立」(野中哲照)にもあるように、義家軍が衣川から北進し次々と城柵を落とし最北端の厨川で大将貞任を倒すまでの、意図的な物語の創出といえる。目的は、源氏の功績を知らしめる軍記物語としたためである。