赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

安倍一族は、中央政府に反旗をひるがえしたことから、姓名をはばかり「阿部」としたという。胆沢若柳の安倍は代々、堰開削者ではないか?

 

岩手県姓名辞典・391頁】安倍・安部

胆沢郡胆沢町若柳に、安倍(あんばい)姓が多い。古くは安倍(あべ)であり当地の安部姓の家と同族であるという。安倍家は時代によって、安部または阿部を名乗っているが、明治の新姓にともなって本来の安倍に戻った家も多かったが、中央政府に反旗をひるがえした前九年の役の安倍の姓をはばかって、読みをすべて「あんばい」としたという。「南部叢書」の高山実伝には、安倍頼時の長男を日井という盲目の者としているが、日井は頼時の逆意に組しなかったので、のちに源義家に上胆沢に住むことを許されたという。当地には、日井の郎党で若柳に残り住んだものが安倍姓の家の先祖たちあろうとする伝承が残る。また、「安永風土記」には、若柳務村の代数百姓二九軒が記載されるが、うち最も古いと思われる家に八代相続の成沢屋敷組頭の弥四郎家がある。同家は阿部三十郎ー平十郎ー九郎兵衛ー九郎左衛門ー甚内ー甚内ー弥四郎と続く。甚内は明和5年まで9か年、弥四郎は安永5年まで9か年組頭を務めた。同家はその後絶え屋敷跡と思われる所を残すのみであるが、付近の字赤剝には分家後裔という安倍(あんばい)家が2軒現存している。