赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

安部外記之介から小次郎(肥前)まで白鳥牛類之舘と東舘にいた

 

葛西没落時の天正18年(1590)に白鳥舘と東館の住人は、地方史では、白鳥民部または治部と、安部小次郎である。安部外記之介の代から住していたとすると、当時は、安部外記之介(70歳)、上野(48歳)、大学(25歳)、豊前(10歳)の家族がいる。あるいは、豊前の弟讃岐(随波の祖父)もいたのではないか。この家族は、仙北に一度逃げ隠れてから赤荻に移住したとも考えられる。赤生津に残る家族には、安部小次郎(推定25歳)と子の十郎左衛門(推定5歳)がいる。この一族で、白鳥舘本城または東舘支城を受け持っていたことも考えられる。伊達世臣家譜の赤生津安倍を書いたのは、伊達家臣の隋波の子孫である。小次郎と随波の祖父が同居していたのであれば、随波の先祖が赤生津安部小次郎にあるというのも理由が分かりそうだ。