赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

安部外記之介の出自は地方史上は不明。宮田城の赤荻(荻荘)家と婚姻関係で赤生津から赤荻に戻ったのではないか

【当調査】

地方史からいうと「安部外記之助」は赤生津に住しており領地は不明、その先祖も明らかでない。葛西没落後は、姻戚関係のある赤荻宮田城の荻荘家の地域に移住。姻戚関係というのは、外記之介が荻荘家の娘婿であり、妻鶴子は荻荘家19代の叔母にあたる。荻荘家17代が葛西没落3年前の天正15年に没し、さらには奥州仕置きで18代が佐沼城で敗死しており荻荘家が危機を迎えた中、赤荻安部家から大学と小次郎の妹上野が荻荘家に嫁いでいる。なお、荻荘家は、藤原泰衡の唯一の子孫であり、現在まで38代の系図(県南史談会研究紀要第30・35集掲載)がある。

 

岩手県史3・108】

安倍外記之介、同小次郎重綱(安部左近同一人)まで、赤生津に居住し、天正十八九年の葛西家没落に際し、安部大学に至って、旧領地の赤荻に居住したものであろう。

「阿部家譜」(一関市千苅田阿部卯吉所蔵)

天正十八年葛西家没落二付、家中ノ諸士、或ハ離散」と記し、「磐井郡赤荻村ハ祖父外記之助知行ノ地故、当村二来リ帰農、伊達家御検地ノ節、御竿答仕ル」と伝えている重綱(小次郎左近)の兄大学の代である。

気仙沼北郊唐桑城主阿部氏も、安倍頼時の裔と称し、永享年中まで西磐井牛臥ヶ城に住し、阿部越前(永享七年五月十二日卒本寿常貞大禅定門)の代に唐桑に転住したとある。山ノ目に伏牛館があり、西磐井地方には、阿部(安倍とも)氏を称する地頭が知られている。けだし同一族であろう。

このように東浜方面に軋轢が起きている。二月十六日使者に立った式部大輔については知るところがない。葛西一家に、葛西式部大夫重俊がる、それに参稽される。

春二月、浜田・本吉両氏の和解を斡旋した安部外記之介の諱名は判明しない。その本領は、西磐井郡の赤荻郷と伝承されているが、累代の事績も外記之介の事績も不明である。

【一関市史・570】

安倍外記之介は所領不明

※晴信感状で、大槻但馬守は金沢村飯倉邑主、佐々木四郎右衛門は胆沢郡永沢邑主、とあるが、安倍外記之助は邑主とも城主ともない。

 

【小野寺啓 県南史談会 安部外記之介論考 25】

荻荘家系図岩手県南史談会研究紀要第三十集、第三十五集)の記載するところによると、「安部外記之介」は荻荘家の女婿(娘の夫)で「佐沼城主」となっている。

「葛西真記録」の中の「葛西御家臣衆座列」にも名が見えない。近辺で名の記載のあるのは、「総家臣次第不定」として、岩渕壱岐守(赤荻城主) 小岩越中(上黒沢) 千葉五郎三郎(三関住人) 新柵太郎左衛門(狐禅寺主) 黒沢豊後(下黒沢ノ主) (注)白鳥治部の名があるが、「東城ノ住」とある。「住」とは「寄宿」の意味であるが、「城主」は誰であったか。

 

安部外記之介の宮田城主について系図上明確でないのに郷土史研究家によっては、外記之介宮田城主が明記されている点については、外記之介が「宮田城に拠り」などの解釈もあろう。しかし、宮田城の赤荻(荻荘)氏と姻戚関係を持った事は系図ではっきりしている。

葛西太守からの「本領と併せ、赤生津に五千刈」の「本領」とは赤荻村内である。場所を「下袋」と擬定しても余り遠くない。姻戚関係の強固な交流を「~館に拠る」と云ったのではないか。