理屈で説明するならこうなるか?
赤荻安部系統は、「安部家系図及阿部家由緒略記」から衣川阿部氏の末裔と伝わる。「赤荻・荻荘系譜」によると、外記之介は佐沼城主(検証では城臣ともいう)で「下袋阿部氏の祖」とある。史料上は出自、所領は不明である。外記之介の代から藤原姓をも出自としてきた。一方、赤生津安部系統は、発掘した系図から衣川安倍を祖とし、白鳥村舘にいて葛西氏に仕えるが葛西没落は赤生津に移住。照井舘は藤原家臣照井家の居館跡であるが血縁関係は不明。赤荻安部と赤生津安部の両系統の祖は衣川安倍氏で共通するが、外記之介の先祖が不明であり、その時代に同一か判断できない。また、小次郎は葛西没落の二年前から赤生津住人であるが、肥前は没落時に白鳥村舘から赤生津に移住したとある。
したがって、両系統が同一かどうかは、現段階では判断できない。
小次郎と肥前が別人であるならば、小次郎は行方不明、肥前は現在の史料にない葛西家臣となる。 ⇒これはありえない。戦死なら史料に残すはず。これだけ探して行方不明はない。史料にない葛西家臣を証明することは困難。
また、同一人物であるならば、白鳥村舘が「小次郎・肥前」の本領であると仮定されることになる。
赤生津安部系統の祖「安倍頼時の七男比与鳥七郎則任」は、白鳥村に居住したというが、その後、照井氏や白鳥氏などとどのような関係にあったのだろうか。また、「照井土地改良区小誌 鐵心郷潤」(一三頁)に「荻荘家が、承元二年(一二〇八)照井太郎の子高泰と計り荘園内の水利の便を興す」とあり、照井家は、藤原泰衡二男を祖とする荻荘家と密接な関係にある。白鳥川開鑿にも携わる照井氏との検証が今後の課題である。