赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

天明2年(1782)安部三左衛門(前畑屋敷③代)造立の法華経供養塔

 

▼供養塔「奉納大乗妙典日本回国供養」 一族や地域が安泰でありますようにと。

 

胆江日日新聞社宮本様から教えていただきました。ありがとうございます。

金ヶ崎の泰養寺入り口にもあるそうです。

 

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ネットには次のようにあります。法華経の布教でしょうか。

 

上のキリーク(梵字)は、釈迦如来を意味します。

 

 

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大乗妙典六十六部日本廻国塔 (sakuraweb.com)

 

天下和順

 大乗妙典六十六部日本廻國塔

 日月清明 行者半七郎

 この塔には上記のように刻記されているが、建立の年月日は不明である。

「六十六部」は六部ともいわれ、六十六部廻国聖のことを指します。これは、日本全国六十六カ国を巡礼し、一国一ヵ所の霊場法華経を一部ずつ納める宗教者です。中世には専業宗教者が一般的でしたが、山伏などと区別のつかない場合も少なくありませんでした。また、近世には俗人が行う廻国巡礼も見られました。なお、奉納経典六十六6部のことを指して六十六部という場合もあります。

 六十六部廻国巡礼の風習がいつ、どのように始まったのかは、はっきりしません。縁起としてよく知られているのは、『太平記』巻第五「時政参籠榎嶋事」です。北条時政の前世は法華経66部を66カ国の霊地に奉納した箱根法師で、その善根により再び生を受けたと説くのです。また、中世後期から近世にかけて、源頼朝北条時政梶原景時など、鎌倉幕府成立期の有力者の前世を六十六部廻国聖とする伝承が定着していました。これらは、六十六部廻国巡礼の起源が関東にある可能性を示唆しています。
 史料的には、13世紀前半にすでに六十六部廻国が行われていたことが確認できますが、いつまで遡るのかは不明です。さかんに行われたのは室町時代以降、とくに近世でした。
 六十六部廻国聖による納経は、その名の由来どおり一国一カ所が原則的でしたが、なかには一国内で六十六カ所をめぐった簡略形もありましたし、逆に一国六十六カ所を六十六カ国分納経した例もあります。いずれにせよ、固定された納経霊場がないのが特徴でした。
 明治4(1871)年10月14日(新 11月26日)に六十六部は太政官布告により禁止されました。ただし、巡礼が禁止されたわけではなく、同年7月22日(新9月6日)に旅行自由となっていますので、その後も全国を廻り法華経を納めるなどということはあったと思います。ただ、六十六部とは言わなくなったのではないでしょうか。ここで禁止されたのは、同年10月28日(新12月10日)に普化宗(虚無僧)廃止、翌明治5(1872)年9月15日(新10月17日)修験宗(山伏)廃止と同じ流れで、神仏分離、僧民分離、集団化し民心を惑わすと思われたもの を禁止ということでしょうか。
  したがって、この日以降の六十六部と名前のはいっている供養塔は、太政官の命令が行き渡らなかった、あるいは反抗した等それ自体歴史資料として貴重なものといえると思います。             参考文献 ネット検索「六十六部」

 

 

【「天下和順」の意】

仏説無量寿経」の中に、
天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起
国豊民安 兵戈無用 崇徳興仁 務修礼譲
(てんげわじゅん にちがつしょうみょう ふうういじ さいれいふき
こくぶみんなん ひょうがむゆう しゅとっこうにん むしゅらいじょう)

 

 

今月のメッセージ:浄土宗 宗祖法然上人800年大遠忌 (jodo.or.jp)

 

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現代語訳 (仏の赴くところは)天下は泰平となり、太陽も月も清らかに輝き、時季よく雨が降り風が吹き、災害や疫病も起こらない。国は豊かに栄え、民の暮らしは安らかとなり、武力を行使することもない。(人々は)他人の善いところを尊び、互いに思いやりながら、つとめて礼儀正しく振る舞い、また譲り合うのである。
解   説 浄土宗の拠り所である浄土三部経仏説阿弥陀経」「仏説観無量寿経」「仏説無量寿経」のうち「仏説無量寿経」の一節。