【藤原家臣であることの1次史料?】
安永6年(1777)の「白鳥村風土記御用書出」に、「一、照井館 南北六十間 東西三十四間照井陣場トモ申傳候。藤原秀衡之御家臣照井太郎陣場之由申傳候。但シ右館当時草飼山ニ罷成居候事」と、照井太郎とその一族家臣が住んでいたことを伝え、
【葛西家臣であることの1次史料?】
いわて歴史探訪 12頁
「白鳥村風土記」によれば、藤原泰衡没落後、照井氏は五串村骨寺に移り、のち葛西氏に仕え、胆沢郡白鳥村の照井館に居住し、田野開拓の事業を任ぜられ、豪族となり、
【なぜ照井氏を、由緒に名乗らないか?】
胆沢や一関で堰を開鑿する照井氏の業績が知られていないのでは?現に風土記に記載がない。
前九年役、後三年役、文治の役と、度重なる追討に、安倍から照井に改姓し、白鳥村に潜伏してきたか?
【系図を照井に偽装したか?】
系図に「手類之舘に住す」だけの表記で照井とは示していない。史料がほとんどないことから、胆沢郡では照井氏は無名に近いのではないか? 系統を誇示や偽装することはないのでは。赤生津安部系図を書き写した安部家も照井氏とは思っていないのでは?
【系図から照井を隠してきたか?】
藤原氏家臣であるため追討から逃避することがあったことから、系図に示さないことも考えられる。安倍則任の子孫の名も同じように追討を恐れて使わないのではないか。
【照井館には、照井一族と別に、安倍一族がいたか?】
史料にはない。白鳥舘の白鳥民部だとしても、藤原三代と葛西17代に仕えたという、郷土資料はない。
【結論】
藤原家臣で葛西家臣という照井太郎の子孫が照井館に居た。
藤原家臣で葛西家臣という赤生津安倍が、手類舘(照井館)に居た。
ほかに照井館の住人に関する史料がない。
これは同一の系統とみなしてよいか、さらに精査が必要である。
胆沢の穴山堰の開鑿を企画した照井氏のルーツを明らかにするためにも
現時点では、同一の系統の可能性を追求する必要があるのではないか。