赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

束稲山麓世界農業遺産登録に向けて資料① 赤生津7軒から59年後の1698年赤生津図

 

▼赤生津図(生母吉田 及川照男氏所蔵)

元禄11年10月(1698) 生江昭内(あおえ しょうない)

(右説明)道幅3分1町の道筋・・・ 

(下説明)この道前沢へ出 渡り船 川幅3町17分

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赤生津7軒(1639年)とその分家が描かれている。宿屋敷大石家、畑屋敷安部家など。

赤生津安部家は、本家畑屋敷から分家した「長根屋敷」「前畑屋敷」も見られている。安部将監造立「山ノ神」もみられる。

緑色は水田、黄色は畑であろうか。北上川が蛇行する以前の図である。現在の開田は昔、中州、畑であろうか。桑畑もみられていない。養蚕は1700年代に普及し始めている。赤い道路の十字路には東舘がある。左の赤と青が交差する所は現在の駐在所で、上に上ると箕輪に出る。左下には古墳が2ケ所。

 

▼1599年に描かれた白鳥川の図(白鳥舘遺跡史料から)

同じ作者が書いたものか?中州が同じである。 

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