赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

畑屋敷の断絶の危機を救う

本家畑屋敷18代嘉雄、分家山ノ神屋敷12代万王は「山ノ神屋敷は畑屋敷の別家である」という。現存する畑屋敷と山ノ神屋敷の系図上での接点は見られないが、調査から畑屋敷8代四郎兵衛から分家した弟「小四良」が山ノ神屋敷初代「平右衛門」と同一人物であるとも考えられている。また、その場合、この山ノ神屋敷は畑屋敷の断絶の危機を救ったことになる。

系図には、畑屋敷七代三左衛門の時に「二男「小四良(推定1775没)」が別家する」とある。ところが、畑屋敷9代孝内には、「江戸にて死去。畑屋敷は跡目相続が叶わず、四郎兵衛の弟「小四良」の子「勘太良」が後を継ぎ、世帯主となった。名を(亡くなった四郎兵衛の子と同じ)「孝内」と改名とする。」とある。つまり、畑屋敷は9代孝内の死亡したが、孝内の従弟を養子に迎え、御家断絶の危機を乗り越えたという。

 

▼山ノ神屋敷所蔵系図

七代 同屋舗 三左衛門

孝内之嫡子也……二男小四良別家也

九代 同屋鋪 孝内

四良兵衛嫡子也 江戸ニ而死去也 跡相續不叶四郎兵衛弟小四良嫡子勘太良跡次人頭則改名孝内也