赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

伊達世臣家譜の阿部小次郎

伊達世臣家譜は、諸臣の家格・待遇の公的な根拠となるものであり、藩政時代には秘書として閲覧は厳しく規制され、写本など勿論存在しない。家譜は藩政時代には府庫に秘蔵された門外不出の書であったが、昭和12年から仙台叢書として印刷発行された。当時の伊達伯爵家の特別な許可を受け発刊となる。

 

この書によると「阿部小次郎」は、伊達の平士(普通の身分のさむらい)である。

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伊達世臣家臣譜12巻(平士之部)136安倍(2巻116頁)

 安倍姓藤原

阿部小次郎重綱を以って祖となす。重綱葛西家に仕え、天正中磐井郡赤生津邑に五千刈の地を領す。

 

前沢白山のキリシタン


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 神麻生村のキリシタン

奥州市前沢白山字大塚のシ社地内に「万霊塔」と刻んだ小さな墓石があり、天明2年の銘が微かに読み取れる。白山字字館の阿部寿七郎氏所蔵の古記録によると「一、大塚は本村大字稲置字大塚にあり、寛永17年切支丹宗徒を成敗して、その遺体を埋めたる所なりと言う。塚上に1基の石塔あり。その裏に万霊無縁塔と彫刻せり。」とあって、白山村に古くからこの碑がキリシタンの殉教供養塔であることを口碑としてつたえられていた。(前沢町史478頁)

 

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磐井郡赤生津村 安部十郎左衛門

磐井郡赤生津村(奥州市前沢)に、安部十郎左衛門を祖とする安部家がある。「磐井郡赤荻(一関市)安部氏 祖の安部外記之介」の安部家との関係は不明だが、同家は寛永年間までに数代を経ていると伝える。十郎左衛門の跡は兵庫ー将監ー三四郎ー幸内ー三左衛門ー四郎兵衛ー幸内ー幸内と継いだ(安永風土記)。

岩手県姓名辞典)

安倍頼時

安倍頼時 あべのよりとき(?~1057)

平安中期の陸奥国の豪族。初名は頼良。「陸奥話記」に「六箇郡之司」とあり、胆沢・江刺・和賀・稗貫・斯波・岩手のいわゆる奥六郡を実質的に支配し、その南端の衣河関(衣川村)に本拠を構えた。その権限は、祖父忠頼・父忠良以来在庁官人の筆頭として鎮守府を運営してきたことに由来すると思われる。永承6年に鬼切部(宮城県)で陸奥藤原登任軍を撃破したことが前九年合戦の発端となり、天喜4年に源頼義と本格的な戦争状態に突入し、翌年離反した同安倍富忠の軍勢と戦い負傷、鳥海柵(金ヶ崎町)で死去した。子に貞任・宗任のほか正任・家任・則任らがいる。

岩手県姓名辞典)

阿部随波(安部外記之助 後裔)

阿部随波 あべずいは (1619~91)

仙台藩における著名な鉱山師。磐井郡山目村(一関市)生まれ。通称小平治、諱は重貞、号は随波。商才にたけ、江戸大火の際は石巻宮城県)から江戸へ木材を送って莫大な利を得たという。盛岡藩鹿角郡秋田県)白根・尾去沢などの諸銅山を経営して成功し、仙台藩へ巨額の献金をしたことや、河道改修・神殿開発などの土功水利に富を投じたことでも知られる。また、中里村(一関市)龍澤寺は随波の寄進によるもので、晩年は各地の神社仏閣に寄進した。随波の子は小平治重頼で、父同様銅山を経営し、藩への献金、新田開発などを行った。(一関市史)

岩手県姓名辞典)

安部精蔵(赤生津長根屋敷)

(1881~1951)

東磐井郡生母村(奥州市前沢)赤生津生まれ。生母村書記・収入役・助役を経て大正12年より3期生母村長を務め、村会議員を含め前後38年間村政に尽くした。また、村の農業会長、耕地整理組合長も務めたほか、北上河畔20余町歩の海田と赤生津橋架設を完成させた。赤生津に頌徳碑が建つ。(県姓名辞典)