(著者)奥羽山脈にいたタモノキ族のみでは、畿内との文化交流は難しいと見て、やはり、畿内から落ち延びた物部氏が胆沢を開拓し、主となったのではないか。その後、アラハバキなど原住民や移住者との対立が激しく、衰退したものであろうか。
300年代初頭 畿内の争いで物部氏が胆沢へ落ち延び、勢力を拡大
※白鳥伝説下308
450年 前方後円墳の主となり
胆沢の民族間争いが始まる
鳥取の祭神「つのこり」から角塚といわれる
658年 安東が安倍氏を名乗り、奥州胆沢へ平定に
COP
4世紀初頭の畿内の争い
については、考古学的な研究が進められていますが、具体的な戦争や対立の詳細は明確ではありません。ただし、この時期はヤマト政権の成立過程と重なり、畿内の豪族間で勢力争いがあったと考えられています。
この時期の畿内では、前方後円墳の築造が始まり、ヤマト政権の支配が拡大していったことが確認されています。特に、奈良県の纒向遺跡は、邪馬台国との関連が指摘される重要な遺跡であり、畿内の政治的な変動を示す証拠の一つとされています。
また、畿内の支配をめぐる争いは、後の物部氏や蘇我氏の対立へとつながる可能性もあります。畿内の豪族たちは、ヤマト政権の形成に関与しながら、権力の主導権を争っていたと考えられます。