赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」。さらに阿弖流為時代にさかのぼり、祖先安倍高丸を追う

300年代初頭の畿内の争いで物部氏が胆沢へ、450年角塚古墳の主となり、587年物部蘇我氏争いで鳥取が胆沢へ

(著者)奥羽山脈にいたタモノキ族のみでは、畿内との文化交流は難しいと見て、やはり、畿内から落ち延びた物部氏が胆沢を開拓し、主となったのではないか。その後、アラハバキなど原住民や移住者との対立が激しく、衰退したものであろうか。

 

300年代初頭 畿内の争いで物部氏が胆沢へ落ち延び、勢力を拡大

      ※白鳥伝説下308

450年    前方後円墳の主となり

        胆沢の民族間争いが始まる

587年    物部蘇我氏争いで鳥取が胆沢へ争いを平定する 

       鳥取の祭神「つのこり」から角塚といわれる

658年    安東が安倍氏を名乗り、奥州胆沢へ平定に

 

 

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4世紀初頭の畿内の争い

については、考古学的な研究が進められていますが、具体的な戦争や対立の詳細は明確ではありません。ただし、この時期はヤマト政権の成立過程と重なり、畿内の豪族間で勢力争いがあったと考えられています。

この時期の畿内では、前方後円墳の築造が始まり、ヤマト政権の支配が拡大していったことが確認されています。特に、奈良県纒向遺跡は、邪馬台国との関連が指摘される重要な遺跡であり、畿内の政治的な変動を示す証拠の一つとされています。

また、畿内の支配をめぐる争いは、後の物部氏蘇我氏の対立へとつながる可能性もあります。畿内の豪族たちは、ヤマト政権の形成に関与しながら、権力の主導権を争っていたと考えられます。