赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する。さらに阿弖流為時代にさかのぼり、祖先安倍高丸を追う

第7報 葛西家臣安部小次郎と赤生津安部初代が同一人物であることの再検証(追加訂正)

【概要】

古代末期、陸奥国北部に威勢を振るった在地豪族に安倍氏がある。11世紀半ばの頼時は「六箇郡之司」と呼ばれ、衣川関を本拠とし、胆沢・江刺・和賀・稗貫・紫波・岩手のいわゆる奥六郡を事実上支配した。前九年合戦で源頼義の攻撃を受け、安倍氏一族は滅亡する。戦国期、その末裔と伝える磐井郡赤荻(一関市)に葛西氏家臣の安部(倍)氏は、安部外記之介を祖とし、気仙郡浜田の乱に調停者として活躍し、葛西晴信から胆沢郡赤生津村(奥州市前沢)地内に五千苅の地を給与されている。赤生津村に、十郎左衛門(肥前)を祖とする安部家があるが、赤荻安部家とのつながりは不明である。

この研究は、衣川安倍氏から葛西家臣となり、没落後の帰農、そして伊達家臣へ再起した赤荻・赤生津安部一族を検証するものである。そのうち第7報の目的は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の奥州仕置きの時代に焦点をあて、葛西滅亡後に分散したと考えられる赤荻安倍と赤生津安部の子孫を血縁としての結びつきを検証することにある。天正18年赤生津東館の住人であった葛西家臣安部小次郎が、没落後に赤生津に帰農して安部十郎左衛門(肥前)と改名し、赤生津安部の祖となった事実を探求するものである。

第7報における新たな史料は、①磐井東山赤生津邑畑家舗安部家之由緒書(5代兵部作成赤生津下屋敷所蔵)、②安部小次郎宛葛西晴信感状(石巻市所蔵)、③赤荻安部系図覚書と過去帳(赤荻下屋敷阿部本家所蔵)である。由緒には赤生津安部が葛西家臣と記され、小次郎の晴信感状は石巻市役所に保管されていることが分かった。赤荻安部家系図覚書からは安部外記之助の孫左近小次郎は赤生津にいると示されている。そして、過去帳(系譜)の没年から、安部小次郎と赤生津安部初代肥前が生存した年代の一致を結論付けたのである。

  

【研究方法】

 

1 磐井東山赤生津邑畑家舗安部家之由緒書の検証

由緒書のうち葛西没落後に白鳥舘から赤生津に移住した初代安倍肥前の実在の証明のため、由緒の「白鳥村牛類之舘」と「愛宕堂」に関する事実を調査する。衣川安倍氏時代から葛西没落前の時代の由緒書きは次の研究課題とする。

(1)安倍肥前の条「葛西没落後に落城し、伊澤白鳥邑牛類之舘に居住が叶わず、そして東山赤生津邑に移り浪人となる」に関する聞き取り調査

(2)「愛宕堂を造立し、その所に居住する」の現地調査

2 奥州仕置きと切支丹迫害による出自隠蔽の検証

(1)安部小次郎が受けた奥州仕置きと、赤生津安部家への切支丹弾圧

 赤生津東館が受けた奥州仕置きに関する史料調査と、赤生津安部家が切支丹であり、受けたであろう弾圧の検証

(2)安部小次郎宛葛西晴信感状の紛失と晴信偽文書に関する調査

 想定される紛失の理由と時期、収集家毛利氏に渡る経過を聞き取り調査する。また、石巻市の葛西晴信偽文書目録によると、晴信文書香炉印の違いから、浜田の乱の参陣した諸士の感状がほとんど偽文書にあたるという。安部外記之助と安部小次郎の感状も該当するが、これに関する調査と所見をまとめる。

(3)安部小次郎から肥前への改名に関する史料調査

 出自を隠蔽せざる得ない刀狩や兵農分離、切支丹弾圧などの時代背景や、周辺地域の史実を調査する。

3 赤生津安部系図と赤荻阿部家系図の接点の検証

(1)赤生津安部家と赤荻阿部家の系譜調査

 赤生津安部分家のうち10代以上の山ノ神屋敷、長根屋敷、下屋敷、前畑屋敷の系図を収集する。赤荻阿部の総本家の系図と墓碑から安部小次郎の子孫を調査する。

(2)両家の系図的つながりの調査

安部小次郎の墓碑や子孫が一関赤荻にないことを調査し、赤荻阿部総本家の系図上の小次郎と赤生津安部との接点を調査する。

 

【結果】

 

1 磐井東山赤生津邑畑家舗安部家之由緒書の検証

(1)安倍肥前の条「葛西没落後、伊澤白鳥邑牛類之舘に居住が叶わず、東山赤生津邑に移り浪人となる」の調査

①白鳥舘落城により赤生津に移住した赤生津安部初代

 天正18年の奥州仕置きにより白鳥舘は落城した。秀吉の城破却は謀叛(むほん)を未然に抑止する命令である(奥羽仕置の構造36)。城を減らし現在の前沢地域でいう前沢城のみとした。安部家由緒は、没落後白鳥から赤生津に移住とあるが、伊達世臣家譜では、葛西没落3年前の天正15年に赤生津に移住し、天正18年の葛西没落に遭うとある。由緒書では没落後やむをえず赤生津に移住で、伊達世臣家譜では、天正中に赤生津に移住後に没落という違いがある。

赤生津邑畑家舗安部家之由緒書

赤荻阿部家由緒略記(阿部隋波考証)

伊達世臣家譜

(祖は衣川安倍氏

葛西臺破(壱岐)守清重家臣となり拾七使える。葛西没落(天正18年1590)となり、伊澤白鳥邑牛類之舘に居住が叶わず、東磐井赤生津邑に移る。その先代安倍肥前と云う。

(祖は衣川安倍氏

後代外記之助に至って葛西晴信に仕え家老職に在り。上野、左近(赤生津安部の祖小次郎)、大学、その次男讃岐に至り、葛西家は没落し、安部一族も分散したので仙北に逃げた。其の後磐井郡に帰り来たって赤荻下袋に住した。

安部小次郎重綱葛西家に仕え、天正中磐井郡赤生津に住み、五千刈の地を領す。後、葛西家亡(滅亡)に遭い、大学(小次郎の兄)流落。

胆沢郡や西・東磐井郡における葛西家臣の安倍は、伊達世臣家譜と葛西氏家臣団辞典では赤生津安部と赤荻安部のみ。安部肥前の名は、地方史にないが、赤荻安部外記之助の孫安部小次郎であると推察する。葛西家臣としての赤生津安倍の祖は小次郎であり、安部家由緒の肥前と同一人物といえる。

②赤生津東舘落城により仙台仙北へ逃れた白鳥氏と赤荻安部

白鳥舘と赤生津東舘は本城と支城の関係といわれ城主が白鳥治部まはた白鳥民部である。葛西真記録「葛西御家臣衆座列」には白鳥治部の名があるが、「東城ノ住」とある。「住」とは「寄宿」の意味であるが、「城主」は誰であったか。東舘家臣の大石家系図では、葛西没落後当主(東舘)は大崎へ落ちたとある。赤荻安部は仙北へ逃げたが、どちらも仙台藩の仙北地域であろうか。

 

▼地方史に見える赤生津安部と白鳥氏【岩手県史】

白鳥城 白鳥八郎行任のち白鳥治部少輔、天正中まで 

東 館 天正(安倍小次郎重綱)、白鳥治部少輔(白鳥民部?)

1588年 浜田征伐(恩賞関係晴信文書)     赤生津安倍小次郎

1590年 奥州仕置軍迎撃葛西将士名表(古文書) 白鳥民部(赤生津)

 

白鳥邑牛類之舘の史料にない呼び方であるが、「牛類(うしるい)」は、船着き場の波除の役割がある。川の流れを変えるために用いられる工法。特に、河川の上流部から中流部の瀬替え、取水堰周辺、河岸部の保護に利用した。現代でいうテトラポット(消波ブロック)のようなもので、丸太を三角錐に組み合わせた形状が双角の牛に似ていることから、「牛」と命名されたといわれる。白鳥村からは見えにくいが、対岸の赤生津からは、牛類がよく見えることから、白鳥村ではなく赤生津村など周辺地域からの呼称ではないかと考えられる。 やがて白鳥舘は、近世初期(1641年まで)に伊達藩が藩米輸送のため河岸を整備するに至り、その機能を失ったと推定(白鳥舘遺跡発掘調査報告書2005)され、やがて舟運港は赤生津に移った。数百年の後「牛類の館」の呼び名は風化したのではないか。

 

(2)「愛宕堂を造立し、その所に居住する」の現地調査

 愛宕堂は生母青木地内にあり畑屋敷から東の束稲山に600mにあり、北上川と白鳥舘が見下ろせる位置にある。一般的には知られることのない祠であり、畑屋敷の当主のみ代々、正月など参拝してきた。安部の神社、愛宕神社とも伝えられる。

 

2 奥州仕置きと切支丹迫害による出自隠蔽の検証

(1)安部小次郎が受けた奥州仕置きと、赤生津安部家への切支丹弾圧

 天正18年7月安部外記之介が亡くなり(戦死ではない)、8月の秀吉の奥州仕置軍を迎え撃つのは赤生津東舘の外記之助孫の小次郎と白鳥治部少輔である。秀吉の命令に逆らい小田原に参陣しない葛西家臣の居城は倒壊、追放され領地没収となる。記録は悉く散逸し、詳細の事績を知ることはできない(柏山氏の没落から)。

当時は東磐井郡の田河津金山が盛んで、多くの切支丹が潜伏していた。隣接の赤生津にも切支丹は布教だけでなく婚姻関係からも広がった。赤生津には大石家と安部家が切支丹類類族となる。大石家は切支丹を嫁にしたことで類族となる。安部家の経緯はわからないが、墓地に切支丹の墓字「釣針状のⅭ」が2基ある。切支丹墓字とは、類族が死後塩漬の上検視されるのを嫌い江戸奉行所に嘆願し、切支丹墓字を刻むことで検視を逃れるものときく(岩手県一関市東山町のキリシタン 真楽寺實水の建白書)。その墓字には「一 心 C(釣針状) 卍」などがある。

赤生津安部の畑屋敷・山ノ神屋敷・前畑屋敷の旧墓地にある「釣針状のC」墓字は、畠山喜一氏「東磐井郡キリシタン遺跡」によると殉教者の墓と推察。Cマークはキリスト教を表す頭文字で、厳しい弾圧にも屈せず所成敗(ところせいばい)され、処刑は逆さ吊り(倒懸)という。

 

当時、切支丹は主君のための切腹や殉死など封建的習慣を自殺行為と否定、支配者かやは叛逆思想であり封建社会の秩序をみだすことから、支配者の地域を危うくするものととらえられていた。元和6年(1620)秀吉の禁教令により「将軍の意思に反して切支丹になった者は第一の罪人として棄教を命ず、これに反する時は財政を没収し、追放域は死刑に処す。切支丹信徒を訴え出ずる者には報償と賞金を与う」。前沢の古城や白山、白鳥など寿庵堰の延長に携わる多くの殉教者がいる。貞享4年(1687)切支丹根絶策の類族改制により類族を男系5代、女系3代にわたり監視し幕府の宗門改役に肝入から報告されることとなる。子孫の詮索のための調査から安部家の系図が没収されたと考えられる。

 

(2)安部小次郎宛葛西晴信感状の紛失と晴信偽文書に関する調査

安部小次郎宛の葛西晴信感状は、浜田の乱という葛西領内での内紛を鎮めるために参陣した家臣らが軍功による領地を与えられたものである。小次郎祖父の外記之助も仲裁により赤生津に五千刈を与えられているが、現在の赤生津安部本家、分家の農地がこれにあたると考えられる。感状は一族の宝であり葛西家臣であることを証明する重要文書である。小次郎感状の所有者は、岩手県史によると石巻毛利とある。調査により石巻市在住の収集家毛利惣七郎(1888-1975)が、石巻市役所に寄付し毛利コレクションとして公開している。小次郎は赤生津東舘の住人であった。東舘の家臣は大石家であることから子孫の大石喜清氏に、所有者の手元を離れた理由を尋ねると、大石家は慶長年間に、系図を紛失した記録があり、藩が提出を求めたか没収したという。兵農分離や刀狩で反発する浪人の取り調べもあったと考えられるが、大石家と安部家は調査から切支丹であることが分かり、弾圧と類族調査のために没収されたのではないかと推測される。大石家の場合、明治になり藩が所有していた系図が収集家に買い取られ、大石家に売り渡したという。赤生津安部本家と分家には、由緒と初代のみの系図がなく、口碑伝承のみが残っている。おそらく、安部小次郎感状と安部家の由緒も、慶長年間に没収されたと考えられる。

小次郎感状が葛西晴信偽文書であることは、小次郎感状を保管している石巻市教育委員会からの指摘である。石巻の歴史第6巻「葛西晴信黒印状について」などに基づき香炉印に相違があるなどの見解であるが、偽文書目録によると、浜田の乱で軍功をあげたほとんどの家臣の感状が偽文書となる。これは、浜田の乱そのものが偽りであり実在しないと見なすことに等しい。「浜田の乱」とは、豊臣秀吉の奥州仕置きを招く重大な出来事である。葛西晴信が領内の家臣同士の争いに気を取られ、秀吉の命令である小田原征伐への参陣ができずに、秀吉の仕置き軍を迎えた最大の原因となった。石巻市では、葛西晴信発給文書の偽文書が江戸時代の仙台藩領で作成されなければならないか、明確な答えがまだないという。浜田の乱は天正16年、奥州仕置きは天正18年であり、この混乱期に46人の参陣者に知行地の賞与を含め感状の発給が遅れたのではないか。秀吉の領地没収され伊達藩の領地となってから、何者かが参陣者の要請にこたえて文書発給をしたのではないか。安部小次郎感状のあて先は、「西磐井郡赤生津住人」と感状や岩手県史にある。46人の浜田の乱参陣者のあて先は、役職でなく住人や個人名も多いことから葛西家臣の剥奪後に与えられた文書ではないかと考えられる。葛西氏家臣団辞典別冊では葛西史に詳しい武士階級の者が修史のために行ったとも考えられている。

 

(3)安部小次郎から肥前への改名に関する史料調査

 ※修正前論文の「小次郎から十郎左衛門(肥前)に改名、出自が隠蔽された理由」

 

3 赤生津安部系図と赤荻阿部家系図の接点の検証

※修正前論文の赤荻下袋屋敷安部系図と赤生津畑屋敷安倍系図の接点に関する検証

 

【考察】

※修正前論文

 

【まとめ】

 今後の研究課題として、白鳥氏と赤荻・赤生津安部の関係が残る。葛西没落後の白鳥治部少輔の足取りが途絶え、赤荻安部の初代外記之介以前の先祖は知られていない。赤荻安部家の先祖ゆかりの地とは、外記之介の妻が赤荻宮田城の出身である。また、赤荻阿部家には鎧兜や鑓などを所蔵しており葛西氏時代の武士である。赤生津安部由緒には、葛西氏17代に仕えたとある。赤荻安倍氏が一時的に赤生津に移住したとは考えにくい。白鳥舘・東舘の住人として葛西氏代々仕えたのか、あるいは、白鳥氏が天正期に赤荻・赤生津安部に改姓したという推測である。安部外記之助が白鳥氏である史料はないが、両者は衣川安倍氏の子孫と伝えている。

 また、切支丹弾圧が赤生津安部の出自を隠蔽する理由にもなるが、社会事業への功績も顕彰されなければならない。安部一族である山目の随波も切支丹といわれ、鉱山経営や龍澤寺本堂新築などの功績がある。まだ、地方史に表れない一族の社会貢献があれば調査し、赤生津安部が社会に果たした役割を検証しなければならない。