岩手県南史談会研究紀要「近世に於ける北上川舟運についてー東山・西岩井を中心としてー」八巻一雄氏
岩手県南史談会研究紀要「北上川の舟運と艜舟の難破」千葉明伸氏
大石家の記録から、赤生津の北上川の悪瀬(危険な所・場所)のため難破が多く、艜下り河版を毎日3人交代と、御石船が通るときは、出人足24人割り当てられ、難破があれば村で多数の人足を出仕しなければならない。
赤生津村では難破船の救済や川番人足のとして何度も狩りだされるので、村民に不満がり訴状を起こしている。
【当調査】
1590年当時は、北上川が蛇行していないが、難破船が多い難所であった。地図上では中州も多い。安永4年(1775)東山西磐井船所によると、母体、赤生津、長部、小島、舞草、相川、門崎、薄衣と船着き場がある。白鳥港は葛西時代までである。赤生津の対岸の白鳥舘周辺も難所であり、水制(牛類)が必要な場所でなかったかと推察する。
奥州市歴史遺産課では、「白鳥牛類之舘」を未見であるとしている。また、「牛類」を誤訳でないかともいうが、安部本家が書き写しした子孫の由緒記録には「牛類」とあり、岩手県南史談会研究紀要掲載の安部の出自を尋ねて第3報81頁にも「牛類」と記してある。