胆沢平野は安部一族拠点の衣川の軍事に必要な食料を確保するため重要な農地と見て、水路を引く工事に重点を置いたのではないか。
兄貞任とともに胆沢堰から白鳥川へ水を引く開発にあたっていたのだろうか。前九年後大分へ兄宗任とともに流される。その後、胆沢堰の開発は、照井太郎が引き継いだのだろうか。
盲目の兄弟「日井」は胆沢に残されたが、堰の開鑿に関連していたのだろうか。
もう一人の兄弟「比与鳥七郎」は、白鳥村にいて、藤原氏に仕え、水路を開鑿したのか?
比与鳥村は、「比与鳥の柵」の江刺稲瀬か?
白鳥舘には、その後、源氏側(敵側)の血を引く白鳥氏(安部の血を引く)が居住する。
隣の照井舘には、照井舘が胆沢から白鳥までの堰をひくために工事期間中居住したのか。付近の前沢城の前身「昔舘」には、安倍子孫がいたという。照井舘も前沢城の住所も「陣場」ということから関連あるのか。この安倍子孫が「比与鳥七郎」ではないか。これがあらたな仮説である。