赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

白鳥八郎行任の後裔「白鳥民部少輔」の出自

 

磐井郡郷土誌(昭和53年6月25日発行)134頁

 

〇東舘  東西二十八間

清和天皇ノ後胤山名駿河守泰衡衣川關所守護ニ任セラレ本館ニ居住ス文治五年閏五月衣川合戦ノ時知行二千七百貫ヲ領ス一敗地二塗ㇾ津輕ニ逃ル實ニ建久一年五月二十八日二子父敗戰ノ後ヲ受ケ氏ヲ白鳥ト改ム是即チ白鳥ノ祖タリ母阿部民部介女白鳥八郎行任ノ後胤ナリ舘主白鳥民部少輔行長ニ至リ天正中没落ス今ノ宿屋敷其後裔タリ

 

(著者訳)

清和天皇の後胤(子孫)である山名駿河守(官職名)は、藤原泰衡の衣川関所の守護を任ぜられ、本館(磐井郡赤生津村東館)に居住する。文治五年(1189年の奥州合戦)5月28日に子と父が敗戦の後を受けて、氏を「白鳥」と改める。これすなわち、白鳥の祖である。母は阿部民部介(官職名)の娘の「白鳥八郎行任」の後胤である。館主(東館)の白鳥民部少輔行長に至り、天正中(1590年の豊臣秀吉の奥州仕置により)に没落する。今の宿屋敷(白鳥氏の家老であった赤生津大石家)は、その後裔である。