赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

新城(白鳥村舘跡)に白鳥舘白鳥氏の出城と阿部家墓石群

 

「新城」は、白鳥舘、照井舘と同じく、天正(1590)の葛西没落まで存在した舘である。この「新城舘」に関する史料はいまのところない。しかし、白鳥マップのなかに、手掛かりがある。

 

新城公葬地の東の林中に、「白鳥舘阿部家の墓所が約30坪にわたり墓石群があることが判明している。白鳥舘の首領白鳥氏の出城であるともいわれている。」と白鳥住民協議会の史料にある。

 

東北自動車道西側の高台に墓地がある。東端の村上家墓地から山中に入り、10m付近に、墓地を見つけた。

 

安永とあるので、1772年ころ。

4体の墓石がある。

 

後日、白鳥舘の阿部家本家にきくと、確かに、土地を所有しており、祖父の代にお参りにきたことがあるという。なぜ、ここに所有していたかは、わからないという。白鳥村一帯に土地を所有したいたともいう。白鳥地区の阿部家は白鳥舘、鵜の木のみしかない。

 

出城とあるので、白鳥舘の出張所ではないかと思うが、その住人であったのであろうか。白鳥舘阿部家は、鵜の木など周辺に分家があり、一族の新年会も継続しているという。

白鳥舘阿部家本家には古くからの墓石(鵜ノ木墓地)がある。中には、五輪塔も見られる。

本家によると家系図はないが、この墓石群から追うしかないという。