赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

赤生津七軒 畑屋敷(安部家)

「十郎左衛門を祖とする安部家がある(20代続く)。【二】の安部家との関係は不明 ?

 

【二】磐井郡赤荻安部家(一関市)

祖の安部外記之介は、天正15年の本吉郡宮城県志津川城主元吉大膳大夫と気仙郡浜田城(陸前高田市)城主浜田安房守広綱の対立による争乱に際し、調停者として活躍し葛西晴信から胆沢郡赤生津村(前沢町)地内に五千苅の地を給与される。【一】の末裔と伝える。

 

赤荻安部家(阿部家)には、鎧や外記之介墓石などがある。

 

【一】古代末期、陸奥国北部に威勢を振るった在地豪族安倍氏

衣河関を本拠とし、(頼義の)嫡子貞任を岩手郡厨川柵に、三男宗任を胆沢郡鳥海柵(金ケ崎町)に配し奥六郡を事実上支配した。

 

白鳥氏

中世、胆沢郡赤生津(前沢)の東城と同郡白鳥(前沢)の白鳥城に拠った葛西氏家臣の白鳥氏。白鳥城は、安倍頼時の八男、白鳥八郎行任の居所

 

天正15年(1587)、赤荻(一関市)の安倍外記助が、葛西晴信から赤生津に五千苅を給され、三男小次郎重綱を東城に居住させているが(赤荻安倍氏系図)、白鳥一族は天正初めごろに家勢が衰え、安倍氏に東城を明け渡し、白鳥城に移ったと考えられる(葛西氏家臣団辞典など)。