赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

赤生津安部家の疑問にこたえる 赤生津安部氏の出自を尋ねて 赤生津安部の祖は安倍則任 (岩手県南史談会研究紀要第53集)

 

発掘された赤生津安部家系図

安倍頼時七男白鳥七郎則任は、衣川、厨川の両城の落城により、その後降参し、胆沢白鳥村(牛類または手類)舘に居住し、先妻は厨川の堀に沈んだ。その後、妻を娶る。その子孫が同所にやや久しく居た。その後、鎮守府将軍藤原之清衡より三代仕えた。髙舘落城し、その後に、葛西臺破守清重家臣となり十七代仕えたが、葛西氏没落により白鳥村(牛類または手類)舘に居住が叶わず、東磐井赤生津村に移住する。その初代は安倍肥前と云う。