赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

安倍軍は鶴脛城の城後の山より抜けて空城となる(日本外史)

日本外史137頁

 

城後の山を伝わりて夜に紛れて逃げる。

寄り手を塀に誘い木石を投げかけて圧殺されないように進むなと・・・

鉤縄を取り出し石垣へ投げかけて、馳せ登り城に入りて・・

 

(著者)

鶴脛城は城壁のある城、後ろが山つづき、北上相去の「相去城」か江刺稲瀬「鶴脛台」か。

 

仙台叢書

437P

鶴脛柵跡 相去村(鶴野城)

正任が籠城、官軍と戦うが戦利あらず。ついにこの柵敗亡して正任源家へ降参。

(著者)要害の地で石垣もありそう。だが、八幡太郎義家が正任黒沢尻を攻めるとあるので、相去村「相去城」(別名「鶴野城」)の鶴脛説は、黒沢尻戦のことを指しているのか?