赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

鳥海柵に逗留してから、軍勢を黒沢尻、鶴脛・比與鳥に分けて攻める(前太平記)

 

黑澤尻、鶴脛、比與鳥落城の事

 

斯くて將軍、鳥海に逗留あつて軍勢を分かち、諸方の賊を攻めしめらる。貞任が弟四郞正任が籠りたる和賀郡黑澤尻の柵五五へは八幡殿を大將として二千五百餘騎にて差し向けらる。また鶴脛五六、比與鳥五七の二柵は五郞家任、七郞則任が居城なりしほどに、修理進景通、荒川太郞武貞に三千餘騎を相添へて件の二柵にぞ向けられける。四郞正任は八幡殿の襲ひ來り給ふと聞きて、「何樣にも手痛き戰あるべし。義家ほどの猛將が、しかも大勢にて寄せ來るに、我これに對して戰はんに勝利を得んこと難かるべし。然あればとて一戰もせで聞逃にせんこと天下の人口も恥づかしければ、敵を待ちて一戰の後左も右も計らはめ」とて、その勢千三百騎皆城中を打つて出で、柵より外に陣を取る。  斯りしほどに同じく十二日の午の刻より戰始まりて喚き叫んで戰ひけり。元來正任出し拔いて逃げ延びんと計りしことなれば、二三箇度懸け合ひて相圖の鉦を鳴らし柵の中へ颯と引く。官軍勝に乘つて續いて城中に攻め入らんとす。正任が兵一の城戶に支へて防ぎかねたる體に持成して、わざと寄手を城中へぞ引き入れける。正任は思ふ圖に誘き入れて搦手より脫け出で、行方知らず落ち行きけり。正任さへ此の如し、況やその外の兵共なじかは少しも怺ふべき、散り散りになつて逃げたりけり。然れば暫時の戰ひなれども射殺すところの賊徒三十二人、疵を被りて逃ぐる者はその數を知らず、忽ち戰散じけり。  鶴脛、比與鳥の二柵も悉く攻め拔かれ、家任、則任落ち失せければ、景通、武貞も一戰に打勝つて將軍の御陣へぞ歸りける。

 

太平記