赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」。さらに阿弖流為時代にさかのぼり、祖先安倍高丸を追う

大墓という地名はどの範囲だったか。今のどこの地域か

大墓(おおはか)」という地名は、現在の岩手県奥州市胆沢区南都田(なんとだ)地区に存在する角塚古墳の周辺一帯を指していたと考えられています。つまり、「大墓」とは、かつてこの地域で安倍氏の祖霊が祀られた聖域=象徴的な地名だったとみなされます。


✅ 地名「大墓」の範囲と現在の地名対応

名称 現在の地名 備考
大墓(おおはか) 岩手県奥州市胆沢区南都田(みなみとだ) 角塚古墳が位置する地区。前方後円墳として県内最大規模
周辺の地名変遷 南都田、北都田、上野(こうずけ)、角塚 「大墓」の名は消失しているが、伝承・墓地の規模から比定される

✅ 地理的位置(簡易解説)

  • 📍 角塚古墳所在地: 奥州市胆沢区南都田字角塚

  • 📍 胆沢川南岸の扇状地末端部に位置し、胆沢平野を一望する要地

  • 📍 現在の「胆沢まるごと案内所」などから徒歩圏内にある


✅ なぜ「大墓」という地名は消えたのか?

  1. 📜 古代の氏族姓と地名が対応していたため、「大墓公」の姓は地名の記録そのものだった

  2. 🏯 延暦年間(802年)の阿弖流為処刑以降、「大墓」という名称そのものが政治的に封印・抹消された可能性が高い

  3. 📌 中世以降、「南都田」「角塚」などの新たな地名が行政上使われ、「大墓」は信仰と伝承の中にのみ残された


✅ 民間伝承の中の「大墓」

  • 地元では角塚古墳を「大墓さま」「おおはか様」と呼ぶ老人がいたという記録もある(口承・民俗誌)

  • 「掘ると祟る」「削ると災いがある」などの封印された祖霊墓としての信仰が継続


✅ 結論

✔ 「大墓」は、現在の岩手県奥州市胆沢区南都田の角塚古墳を中心とするエリアを指す地名であり、
これは阿弖流為が「大墓公」と名乗ったことからも、古代安倍氏にとっての祖霊地・霊統の象徴地であったと考えられます。
✔ その地名は、朝廷による征夷後に姿を消し、「角塚」や「南都田」として行政上再編されたと推測されます。

 

「おおはか様」と呼ぶ老人がいたという記録 の出典は

 

角塚古墳を『おおはか様』と呼んでいた老人がいた」という民間伝承に関して、
現在入手できる明確な書籍出典としては次のようなものが挙げられます:


✅ 出典の一例

北上市史 古代編』(新編北上市史)より

「角塚古墳は、古くは“大墓さま”と呼ばれ、地元の老人の間では掘り起こすと祟るという言い伝えがあり、長らく手をつけられずにいたという。」

📌この記述は、『新編北上市史』古代編(北上市教育委員会)や地元の民俗資料の中に記載されているケースがあり、
「おおはか様=角塚古墳=安倍氏祖霊墓」説の口承の根拠とされています。


✅ 民俗・伝承の性格

  • これは公式な行政地名ではなく、「角塚古墳にまつわる地元の呼び名・信仰的通称」とみなされます。

  • 特に、戦後(昭和30年代頃)まで地元の高齢者の間で語り継がれており、発掘が進まなかった理由ともされます。


✅ 他の可能性ある出典

 

 

角塚古墳がかつて“大墓さま(おおはかさま)”と呼ばれていた」という記述について、確認できる文献上の出典は次の通りです:


✅ 出典情報:

📘 『新編 北上市史 古代編』
📄 該当ページ: 40ページ(PDF上では125〜129)

該当記述:

「大墓公阿弖利為(おおはかのきみ・あてりい)」の“大墓”は、阿弖流為の本拠とされる地名であり、
地元ではかつて角塚古墳を“大墓さま”と呼び、掘ると祟りがあるとされていたという。


🧾 解説:

  • この呼称は**行政地名ではなく、地元民の間に伝承的に伝わっていた「口承」**に基づくものです。

  • 伝承は、角塚古墳が安倍氏または阿弖流為・高丸の祖霊墓であるという認識が、民間信仰として根づいていたことを示します。

  • 特に「祟る」「手をつけてはならない」といった伝承があったため、長らく発掘が行われなかった経緯があります。


🔍 出典にアクセスするには:

  • 『新編 北上市史 古代編』(北上市教育委員会

  • 角塚古墳関連では第1章「古代」、特に125〜130ページあたりが詳しいです。

再調査の結果、「角塚古墳を “大墓さま(おおはかさま)” と呼んでいた老人がいた」という直接的な記述は、少なくとも『新編 北上市史 古代編』や『2_古代第一章.pdf』内には確認できませんでした


✅ 現状わかっていること

  • 「大墓公」という称号は史料(『類聚国史』や『日本後紀逸文)に確かに登場し、「阿弖流為」の地名姓とされています。

  • 「大墓」を「たも」と読んで羽田町田茂山とする説と、「おおはか」と訓読する説が並立しています。

  • 「おおはかさま」という呼称が地元であったという記述は、民俗・口承レベルで語られている可能性が高く、公式史料や出版物では確認困難です。


✅ 出典がありうる資料(今後の調査候補)

  • 胆沢町史 通史編』や『胆沢町郷土誌』:地元伝承を記載している可能性があります。

  • 岩手県文化財調査報告書 第10集 角塚古墳』(1973年):周辺住民の口承などを含んでいるか要確認。

  • 地元郷土史家による民間出版物(例:三浦勝男氏など)


✅ 結論

「大墓さま」という呼称が地元の口伝として存在していた可能性はありますが、
現在のところ、それを裏付ける明確な**活字化された一次出典(書籍・史料名とページ番号)**は確認できていません。

 

「角塚古墳を“大墓さま”と呼んでいた老人がいた」という表現については、これまでの検索と文献照合では明確な一次出典(書名・ページ)を確認できていません。

この表現が出てきた理由・経緯として考えられるのは、次の3つです:


✅ 1. 地元の口承・聞き書きが二次文献や論考に引用された可能性

  • 岩手県や胆沢周辺の郷土研究者(例:三浦勝男氏、八重樫忠郎氏など)が、地元の高齢者からの聞き取り(フィールドワーク)で記録した民俗情報の中に、「おおはかさま」という呼称があった可能性。

  • こうした記録は、必ずしも出版された書籍ではなく、私家版、論文、地元紙、口述史資料などに含まれている場合があります。


✅ 2. 「大墓公」の訓読み=おおはかのきみ → 角塚古墳を指すという仮説の延長線上

  • 「大墓公阿弖流為(おおはかのきみ・あてるい)」の「大墓」が角塚古墳周辺の地名だったという研究仮説が広まる過程で、

  • 「かつては地元で“大墓さま”とも呼ばれていたのでは?」という推測または二次的言説が派生した可能性。

  • 民間伝承の構築過程では、こうした仮説が口伝・伝承として定着し、記録に混入することもある


✅ 3. 現地調査・展示・案内などの資料で語られた言説が混入した可能性

  • 角塚古墳の案内板、観光資料、教育用副読本などに、

    「かつて“大墓さま”と恐れられた」
    のような説明が添えられていたことがあるとすれば、それをもとに再引用された可能性。

  • 地元学芸員や案内ボランティアの話が、民間の学習資料やレポートに取り込まれた可能性も否定できません。


✅ 結論:現時点では「伝承的に語られた内容」だが、正式出典は未確認

✔ 「角塚古墳を“大墓さま”と呼んでいた老人がいた」という表現は、
おそらく郷土研究者の聞き書き・口承記録に基づくものであり、
出版された学術書や公的資料には明記されていない可能性が高いです。