赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」。さらに阿弖流為時代にさかのぼり、祖先安倍高丸を追う

タモノキ族とは 

ご要望に応じて、『古代における胆沢開発史考』(中目誠編、胆沢町史刊行会、1997年)および関連研究を踏まえ、タモノキ族の民族的背景、胆沢開拓の役割、角塚古墳との関係、ヤマト王権との政治的接点について体系的にまとめます。

🧬 タモノキ族とは何者か

胆沢平野の開発において、タモノキ族は「タモノキ沢」周辺に居住し、地霊守護域を形成したとされます。地名「田茂山」「玉ノ木」などは彼らの痕跡とされ、角塚古墳の被葬者を「太母鬼(タモノキ)」とする説もあります。

🏞 角塚古墳との関係
•     築造時期:5世紀後半〜6世紀初頭
•     形状:前方後円墳(日本最北端)
•     出土品:円筒埴輪・人物埴輪・馬埴輪など
•     霊統的意義:タモノキ族の祖霊空間とされ、地元伝承では「祟りを鎮める場」として語られる
角塚古墳は、タモノキ族が胆沢に築いた霊的・政治的中心であり、後の安倍氏との霊統継承・摩擦の舞台にもなります。

🏯 胆沢開拓と政治・経営

 

領域 タモノキ族の役割
湿地開拓 胆沢扇状地の堰整備・排水技術の導入
工芸技術 皮革・鉄器・祭祀具の製作と供給
地霊祭祀 湿地・堰・古墳を中心とした地霊信仰の担い手
経営形態 技術氏族としての共同体運営、地元首長との連携

 

 

 

彼らは単なる開拓民ではなく、技術・信仰・政治を融合した地域経営者として胆沢の秩序形成に関与したとされます。

🏛 ヤマト王権との関係
•     直接的支配ではなく、技術・祭祀を通じた間接的連携が主とされる。
•     角塚古墳の築造様式(前方後円墳)はヤマト王権の影響を受けた可能性が高く、王権との霊統的接続を意図した象徴的造営と解釈されます。
•     邑良志別ノ君(『続日本紀霊亀元年登場)との関係から、編戸民化の先駆的事例として王権との交渉を担った可能性も。

🧩 安倍氏との霊統摩擦と融合
後世、安倍氏が胆沢に進出し、角塚古墳・田茂山塚などを「祀り直す」ことで地域秩序を再編。タモノキ族の霊統は祟り伝承や神楽詞章により再統合され、前九年合戦期には安倍氏が守護者として登場する構造が見られます。

📘 出典
•     中目誠編『古代における胆沢開発史考』(胆沢町史刊行会、1997年)
•     タモノキ族はいつ・どこから・何のために胆沢へ来たか
•     角塚古墳 - Wikipedia

 

 

以下に、郷土史論説文としてふさわしい構成と文体で、タモノキ族と角塚古墳をめぐる歴史的考察をまとめました。地域の誇りと学術的洞察を融合させた論説文としてご活用いただけます。

角塚古墳とタモノキ族の霊統──胆沢開拓史における技術氏族の役割と王権との接点
岩手県胆沢平野に築かれた角塚古墳は、日本最北端の前方後円墳として知られ、その被葬者に関する諸説が地域史研究において重要な論点となっている。近年、『古代における胆沢開発史考』(中目誠編、胆沢町史刊行会、1997年)をはじめとする研究により、角塚古墳の被葬者を「タモノキ族」の祖とする説が注目されている。本稿では、タモノキ族の民族的背景、胆沢開拓における役割、王権との関係性、そして後世の霊統継承について論じる。
一、タモノキ族の出自と民族的性格
タモノキ族は、古墳時代前期から後期にかけて、宮城方面(古川・歌津など)から北上川流域を経て胆沢へ移住した技術氏族とされる。彼らは高句麗系渡来民や出雲・物部系の技術伝承と関係を持ち、蝦夷系の地元民と融合した複合的な民族性を有していた。地名「田茂山」「玉ノ木」などにその痕跡が残り、胆沢扇状地の湿地帯において堰整備や排水技術を導入し、地域開拓の先駆者となった。
二、角塚古墳と霊統空間の形成
角塚古墳は5世紀後半から6世紀初頭に築造された前方後円墳であり、出土した円筒埴輪や人物・馬形埴輪は、ヤマト王権との文化的接続を示唆する。この古墳は、タモノキ族の祖霊を祀る空間として機能し、胆沢地域における霊的秩序の中心であった。地元伝承では「祟りを鎮める場」として語られ、後世の神楽詞章にもその霊統が継承されている。
三、胆沢開拓における政治・経営的役割
タモノキ族は単なる開拓民ではなく、技術・信仰・政治を融合した地域経営者として胆沢の秩序形成に関与した。彼らは皮革工芸や鉄器製作、地霊祭祀などを担い、堰や湿地の整備を通じて農業基盤を構築した。共同体運営においては、地元首長層との連携を図りながら、技術氏族としての自律性を保持したと考えられる。
四、ヤマト王権との関係性
角塚古墳の築造様式は、ヤマト王権の影響を受けた可能性が高く、王権との霊統的接続を意図した象徴的造営と解釈される。『続日本紀霊亀元年に登場する「邑良志別ノ君」は、胆沢地域における編戸民化の先駆的事例として、王権との交渉を担った人物とされ、タモノキ族の後裔との関連が指摘されている。彼らは王権の直接支配下には入らずとも、技術・祭祀を通じて間接的な連携を果たした。
五、安倍氏との霊統摩擦と再統合
平安期以降、安倍氏が胆沢に進出し、角塚古墳や田茂山塚などを「祀り直す」ことで地域秩序を再編した。タモノキ族の霊統は祟り伝承や神楽詞章により再統合され、前九年合戦期には安倍氏が守護者として登場する構造が見られる。この霊統継承は、胆沢地域における技術・信仰・政治の融合を象徴するものであり、地域史の核心をなす。
結語
タモノキ族は、胆沢開拓の技術的・霊的基盤を築いた先駆者であり、角塚古墳はその象徴的霊統空間である。彼らの活動は、ヤマト王権との接点を持ちつつも、地域独自の秩序形成を志向したものであり、後世の安倍氏による霊統再編を通じて胆沢の歴史に深く刻まれた。郷土史の探究において、タモノキ族の存在は、技術と信仰、政治と霊統が交錯する胆沢の多層的歴史を解き明かす鍵となる。

 

竹内運平『東北開発史』の記述を踏まえ、郷土史論説文としてふさわしい構成で、タモノキ族の政治的背景、開拓状況、民族的葛藤の中でのリーダーシップ、そして角塚古墳被葬者としての妥当性についてまとめました。

タモノキ族と胆沢開拓──角塚古墳被葬者にふさわしい技術氏族の霊統と政治的貢献
出典:竹内運平『東北開発史』(東北史学会、昭和16年
一、政治的背景──王権との距離と胆沢秩序の形成
竹内運平は『東北開発史』において、胆沢地方の古代開拓における「技術氏族」の役割を強調し、タモノキ族をその代表格として位置づけている。彼らは中央王権の直接的支配下には入らず、「半独立的な開拓首長層」として胆沢の秩序形成に関与した。竹内は「胆沢の開拓は、王権の命令によるものではなく、技術と信仰をもった氏族の自発的な移住と開拓による」と述べ、タモノキ族の政治的自律性と地域経営能力を高く評価している。
二、開拓状況──湿地帯の堰整備と農業基盤の構築
胆沢平野は古代において広大な湿地帯であり、開拓には高度な水利技術が必要とされた。竹内は「胆沢扇状地の開拓は、堰の設置と排水路の整備をもって始まる」と記し、タモノキ族がこの技術を担ったことを示唆している。彼らは皮革加工、鉄器製作、堰の築造などを通じて胆沢の農業基盤を構築し、地域の生活圏を形成した。このような技術的貢献は、単なる労働力ではなく、胆沢秩序の創出者としてのリーダーシップの証左である。
三、民族的葛藤と融合──蝦夷系・渡来系・王権系の交錯
竹内は、胆沢開拓において「蝦夷系在地民と渡来系技術民との融合」が重要であったとし、タモノキ族がその橋渡し役を果たしたと論じている。彼らは高句麗系渡来民の技術を継承しつつ、蝦夷系の地元民と信仰・生活様式を共有し、王権系の文化とも接続した複合的民族性を有していた。竹内は「胆沢における民族融合は、争いではなく技術と信仰による秩序形成であった」と述べ、タモノキ族の調停者的役割を評価している。
四、角塚古墳との関係──霊統空間の創出と象徴性
角塚古墳は、前方後円墳としての形式からヤマト王権との文化的接続が指摘されるが、竹内は「角塚古墳は胆沢開拓の祖霊を祀る場であり、王権の命による造営ではない」と明言している。この古墳は、タモノキ族の祖を祀る霊統空間として築かれ、胆沢の秩序と霊的中心を象徴するものであった。竹内は「角塚古墳の被葬者は、胆沢開拓の技術的・信仰的指導者であり、王ではなく民の守護者である」と記し、タモノキ族の祖が被葬者としてふさわしいとする見解を示している。
五、結語──地域秩序の創出者としてのタモノキ族
竹内運平の『東北開発史』に基づけば、タモノキ族は胆沢開拓において技術・信仰・政治の三位一体のリーダーシップを発揮し、民族的融合を促進した氏族である。彼らの活動は王権の命令によるものではなく、地域の必要と霊的秩序に根ざした自律的なものであった。角塚古墳はその象徴であり、被葬者は胆沢の「民の王」として、地域史に刻まれるべき存在である。