赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

安倍家系図と白鳥氏、照井氏との血縁関係は?

【①赤生津安部】

白鳥七郎→衣川落城→白鳥村手類(照井?)之舘居住→藤原三代に仕える→高館落城→葛西家臣17代まで仕える→葛西没落で手類之舘住めず→赤生津村に移る

【②赤荻安部】

衣川安倍を祖→外記之介は赤荻といわれるが赤生津居住→葛西没落後→子孫は赤荻へ

【③白鳥氏】

山名氏→衣川関所藤原氏家臣→衣川合戦→津軽に逃げる→母阿部民は白鳥八郎後裔→白鳥に改姓→白鳥民部は葛西没落後不明

【④照井氏】

藤原氏家臣→白鳥村照井館→白鳥川堰を手掛ける→一関照井堰を手掛ける→葛西家臣という(葛西辞典にない)→葛西没落後不明

 

【推察】

(祖は白鳥八郎か七郎か)地方史では白鳥八郎は白鳥氏に、白鳥八郎は白鳥村に戻るという。

(家臣)赤生津安部は、藤原氏家臣であり葛西氏家臣であるという。白鳥氏と照井氏も藤原氏家臣で葛西氏家臣、しかし照井氏は葛西家臣の地方史に名が見つけられない。

(居住地)赤生津安部は白鳥村照井館か?。照井氏は、照井館にいたが、一関照井堰の開削中は山目にいたのではないか。照井子孫が照井舘に残っていたか?白鳥氏は白鳥舘と東舘。

(葛西没落後)赤生津安部は白鳥照井館から赤生津へ移住。照井氏は不明、一関山目に移住したか。現在は前沢地域に照井の名は存在しない。

 

赤生津安部は照井館に居たとしたら、照井から安部に改姓したのか?照井舘が陣場であり、照井氏が不在となり安部が居住していたか?2キロ隣の白鳥舘に通っていたか?

あくまでも推測である。