赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

荻荘系図に「佐沼城主安倍外記之介」。登米市の佐沼城臣?ルーツはどうなるか?

【研究紀要30集 赤荻・荻荘系譜の一考察・63】

荻荘系譜

●16代 正綱

 妻 弓子

  女 鶴子 佐沼城主安倍外記之介の妻。天正18年葛西氏滅亡の際浪人生家に帰る。文禄3年甲午6月5日没す。註 下袋阿部氏の祖。

18代 正久 赤荻姓 覚波館主 天正18年8月 佐沼城で討死 (…外記之介の甥?)

 

【研究紀要40集 阿部外記之介論考・24】

「安部外記之介」は荻荘の女婿で「佐沼城主」となっている。この城主についても、他史料には「佐沼城臣安部外記」(T氏)とあるという。郷土史上「佐沼臣」が正しいと思われる。その理由は、佐沼城は葛西氏勢力の結集の場で、合戦記録が詳しく記されている。・・・安部外記之介の名が見えない。・・・

荻荘家の面目にあるのではないか。・・・疑問は残る。

 

【当調査】

佐沼城は「照井太郎」の居城である。荻荘と照井は共同で照井堰を開削した。この関係から応戦したのか?

佐沼城主であるのであれば「佐沼左ェ門佐」か?

【葛西没落 佐沼城主の伝承・136】

別伝によれば、永正5年(1508)、佐沼大蔵大輔直兼に嗣子がないので、晴重三男の正信を養い、佐沼ェ門佐と称したことが伝えられている。とすれば時代的に高家とは直兼で、佐沼氏とは直信のこととも考えられてくる。・・・直信はのちに佐沼を追われ、天文22年(1553)に55才で没したといわれているが、妻の佐沼御前が別れを嘆いて入水した場所という御前巻には無記年の板碑が建っている。・・・