【研究紀要35集・52】
<下袋屋敷>
①安部外記之介ー②上野「葛西幕臣阿部上野総太郎頼成」-③大学
※①佐沼城主(臣?)安倍外記之介。下袋阿部氏の祖
※②上野は、佐沼城に奉仕。
※【仙台領の戦国誌・196】①安部外記之介(葛西氏の執事職)
<荻荘家>
⑰正權「熊谷上野」(妹は外記之介の妻)ー⑲良久(妻は②上野の子)
※⑰上野の子は、⑱正久、⑲良久。下袋屋敷安部上野とは別人。
※⑱正久は、天正18年8月11日佐沼城に於いて戦死。天正18年8月葛西右京太夫晴信公の軍勢と合戦に及びしに桃生郡中津山香取に陣立する赤旗組の大将大原飛騨守千葉胤重に加勢し軍敗れて佐沼城を守りしも又々敗軍となりついに8月11日佐沼城に於いて討死す。(→★佐沼古戦場記にあり。葛西氏滅亡の日と同じ)
※⑲幼くして葛西幕士阿部惣太郎頼成の養子となる。天正18年8月太守葛西家滅亡の際阿部氏も散乱し生家に帰る時に兄正久(⑱)戦死継子無き故に浪人、大槻阿波の仲立にて赤荻家兄の跡目相続す御宮館に住す。
※⑲良久の妻政子 阿部上野の女(むすめ)。政子は父安部上野が元にて正蓮次郎右衛門を婿入し夫と為す。父の命にて兄大学子無き故嗣子と定められしも天正の役家内散乱浪人となり政子は夫に従い当郷に至り赤荻家を相続す。
※「葛西氏と荻荘家のかかわり」文治5年に平泉藤原氏が滅亡偶々その嫡子萬寿丸命ながらえて関係者の世話にて羽黒山に入峰。修行中に鎌倉方の御家人葛西清重公の知るところなった。以来葛西氏をはじめ有力な地方豪族等との交際が連綿として続いている。
2代正衡・・・室は、2代葛西清親の養女
10代中興憲成王・・・子は、10代葛西太守平持信の室 など
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⑱正久が加勢した「大原飛騨守」とは?
大原氏は奥州千葉一族で、葛西家中最大の重臣であった。その出自は千葉飛騨守頼胤の子宗胤が、東山大原の山吹城に住して大原氏を称したことに始まるいう。
大原氏麾下の宿老である鳥畑氏の「鳥畑系譜」の堅長の譜に「天正十九年八月十四日、大原千代竹丸(重光)、桃生郡深谷庄に於いて害した後、浪士と為し、同郡天狗田邑に移り民間に交わる」と大原氏の没落を記している。また、「葛西大崎陣割之覚」によれば、大原飛騨守なる人物を記し、その子に六男をあげ、うち五人が一揆に参加して深谷に討死したとしている。すなわち、光胤、定胤、国胤、頼胤、忠胤、致胤であり、致胤以外はすべて深谷で討死したとある。
【葛西氏研究5・70】
→★佐沼古戦場記
大原飛騨守千葉九郎一千七百余騎、香取より引返し、佐沼の城に於て木村勢と攻め戦う。
【仙台領の戦国誌・240】
★奥州葛西記では、葛西氏滅亡の日を、天正18年8月11日