赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

伊達世臣家譜の平士「阿倍」は、晴信感状の偽書の疑いの影響を受けない

 

伊達世臣家譜の平士「阿倍」に、「小次郎重綱というもの、葛西氏に仕えて天正の頃磐井郡赤生津に居り、五千刈の地を領す」とあり、阿倍一族である伊達藩士「阿部隋波」の出自が示されている。伊達世臣家譜とは、第一巻序によると、諸臣の家格・待遇の公的な根拠となり、藩政時代には府庫に秘蔵された門外不出の書である。昭和年代に旧伊達伯爵家の覆刻の許可を得て発行された史料である。

 この「赤生津安倍小次郎」を探し求めて、昭和51年当時、前沢町編集委員が、赤生津に19代続く安部家を調査したが、文書記録を見出すことができず、前沢町史に故地の赤荻(一関市)に帰農したと結論づけた。しかし赤生津には安部一族が存在しながら出自がいまだ明らかでない。この研究は平成21年からはじめられ、赤生津安部家の子孫により小次郎との関連性などを追及してきた。そして遂に、令和3年6月の調査から葛西家臣としての「安倍家系図」を発掘したことから、安部小次郎が赤生津安部氏の祖である可能性を検証するものである。