赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

伊達世臣家譜で小次郎を祖という「隋波」とは、何者か?

 

伊達家臣阿部隋波は、「中里村史」(117頁)によると、「元和5年(1619)赤荻に生まれ。山目に出て木材を買い、北上川の流水を利用し、石巻に輸送して巨利を博した。江戸の大火では、石巻に蓄積の木材を江戸に搬送し、数万両の利を収めた。銅山業に尽くす。伊達藩主に献金して大番組に列せられる」とある。

【中里村史117頁】

 安倍小平治

元和5年(1619)山目赤荻に生まれ、元禄4年(1691)死去。享年73才。活動期の居所は山目町西うらの阿部館。山目銅谷岩井屋にて死去といわれている。本名を阿部小平治重貞といい、随波と号した。当時の事業家で次のように伝えられている。随波、父の肝入役を継がず、商をもって大をなさんと志した。17才(1635)のとき、父より30両を請い受け、山目に出て木材を買い、北上川の流水を利用、石巻に輸送して50両で売った。これをもって山目に帰り、また木材を買い、同じく石巻に送って巨利を博した。寛永18年(1641)、江戸の大火を聞き、石巻に蓄積の木材を江戸に搬送し、数万両の利を収めた。時に23才。その後、伊勢の国出身の鉱山師、山地本水と語り、金山の全主を上方より呼び、大いに銅山業に尽くした。南部鹿角郡の尾去沢、長沢、江刺郡人首の途中山、和賀郡の水沢銅山(三ッ沢)、庄内の永松山・白根銅山・遠野鉄山はその主なもの。

伊達藩主に献金して大番組に列せらる。伊達綱村公治政中、領内巡視に際し、山目の旅萬所を2回にわたって新築提供。36万両を献じた。晩年に至り、仏法に帰依して随波と号し、各地の神社仏閣に寄進が多かった。出羽の羽黒山の石段、蘭梅山の石段、竜沢寺秋葉山道の石段は2代目小平治の寄進である。

以上「中里小学校百年史」より抜粋した。出典の記載なく信憑性について、問題もあろうが、記録に合致する点もいくたあることも事実である。