赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

500年前に現胆沢ダム付近から白鳥まで水を引いた照井氏

 

【照井年表】

 1492年 照井太郎胆沢穴山用水堰小松入り口開削

1493年 照井太郎、照井堰開削と前後して、胆沢馬留穴堰掘削

 

【胆沢平野土地改良区HP】

【特集】胆沢平野の水の歴史を学ぼう (mlit.go.jp)

の古代用水路「旧穴山堰」(きゅうあなやまぜき)
 現在、胆沢平野で確認されている最も古い用水堰は、胆沢町馬留地内の胆沢川から取水し、前沢町白鳥地区までの約18キロメートルを結んだ「旧穴山堰」で、今からおよそ500年前に開削されたと言われています。
 旧穴山堰は、昭和の初め頃まで現役で活躍していました。現在もその一部が穴山堰として使用されている貴重な堰なのです。
 旧穴山堰のうち「穴堰」と呼ばれるトンネル部分は総延長約3キロメートルにも達すると言われています。土木技術も道具もまだまだ未発達だった当時、穴堰の開削はかなりの難工事であり、同時にかなり高度な土木技術があったということの証でもあると言えます。

穴堰
その昔、旧穴山堰の穴堰に地元の人々が入り土砂やゴミを取り除いたりするなどの作業を行っていましたが、堰の内部はとても狭くすれ違うことさえできないため、入った順番とは逆に一番遅く入った人が、最初に穴堰から出ることをたとえて、胆沢地方では、会議や会合などに遅く来て早くに帰る人を指して「穴山くぐり」と言ったりします。この言葉は今なお地元の人によって使われていることから、胆沢地方と堰の関係をかいま見ることができます。