赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

照井舘の照井家(藤原家臣)は、現胆沢ダムの場所から前沢白鳥川まで穴堰などをとおした。胆沢平野は南側が高く、北側が低い地盤。高い地盤に水を流し低地に行き届くように設計したのか?

赤生津安部家は照井舘の出身である。照井館には代々、照井太郎が住み、胆沢平野の穴山堰を開削していた。その穴山堰は、胆沢平野で白鳥川の北側高地に平行に掘られている。高地から低地へと水が流れるようにかと思われるが、地図を見ると現胆沢ダムからトンネルで白鳥川に掘られている。これは、白鳥川の水量を増やすための目的に見える。白鳥村の水田のためにひかれた堰であろうか。およそ800から500年前のことである。