赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

照井堰の起源

 

 

鐵心郷潤 4

照井堰の起源

名前の由来は、大凡八百五十年前に鎮守府将軍藤原秀衡公の家臣であった照井太郎高春が最初に企画し開鑿したのが始まりとされている。しかしその秀衡公が逝去し、藤原四代泰衡公の代になって、源頼朝奥州に義経追討のため藤原四代は滅びるにいたった。

しかしその後も、難を逃れた高春の子高泰は、父の遺志を継ぎ、荻荘荘司(初代良親二代良秀)と共に私費を投入し用水路の延長に取り組み山目の境まで造成進捗した。……その姓をとって照井堰と呼称し今日まで至っている。