▼「1056前九年の役」のとき
安倍則任は、源氏に降参し、照井館に居住した。
照井太郎は、まだ現れていない。
▼「1083-1089 後三年の役」のとき
安倍則任は、藤原清衡より三代(1087ー1187)仕えていた。
照井太郎は、まだ現れていない。
▽1095 清衡、平泉に移る
▽1156 照井太郎が現れる。(岩出山 照井城築造)
▽1187 三代藤原秀衡は文治3年(1187年)死没
▼「1189 奥州征伐」のとき
照井太郎は、泰衡が義経を襲う時に参戦した。
▽1195 照井太郎照井堰開削
▽1221 照井太郎伊澤穴山用水路開削
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1056 前九年の役
平安時代後期に起った源頼義,義家による陸奥の俘囚長安倍氏討伐戦。当時陸奥6郡を支配し勢力のあった安倍頼良 (頼時) が,国府に貢賦を納めず,徭役もつとめないので,太守藤原登任 (なりとう) ,秋田城介平繁成らはこれを討伐しようと攻めたが失敗したため,朝廷では永承6 (1051) 年源頼義を陸奥守に任じてこれを追討させた。頼良は一時帰服したが,頼義の守任期終了まぎわの天喜4 (56) 年反乱を起し,頼義側の宿営を襲撃して衣川に拠った。頼義は重任して安倍氏征伐にあたり,翌年頼良を敗死させたが,頼良の子貞任 (さだとう) を中心にした安倍氏の結束は堅く,頼義らの苦戦は続いた。しかし出羽の俘囚清原光頼,武則らの応援を得て,康平5 (62) 年ようやく貞任を倒してこの乱を鎮定した。同7年貞任の弟宗任らは伊予に流された。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 旺文社日本史事典 三訂版について
1083 後三年の役
平安後期、永保三年(一〇八三)から寛治元年(一〇八七)にかけて奥羽地方で行なわれた戦役。前九年の役で奥羽地方を制覇した清原武則の子武貞の没後、真衡と家衡・清衡(ともに武貞の実子および養子)の間で紛争があり、真衡の死後には家衡と清衡が争った。この頃、陸奥守として源義家が入国して両者の調停をはかったが失敗し、清衡の請に応じてこれをたすけ、叔父武衡と組んだ家衡と対抗した。戦役は、寛治元年に武衡らのこもる金沢柵を攻落して清衡方の勝利に終わり、清衡は奥羽両国の押領使と鎮守府将軍を兼ねて、以後の平泉を中心とする藤原氏三代(清衡・基衡・秀衡)の栄華の基を開いた。他方、義家に対して、朝廷は私闘とみて行賞しなかったが、義家もこの戦役を通じて東国武士団を組織動員し、源氏の東国における勢力基盤を築いた。
1189 奥州征伐(藤原泰衡追討)
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について
1590 奥州仕置