・胆沢平野の稲作発展
出店断層で知られるように、胆沢平野には、段差がある。盆を斜めにすることにより、川が、何千年かけと横滑りし、扇状地ができている。これを水陸万頃という。
水陸万頃HPより
「続日本紀[しょくにほんぎ]」延暦8年(789)の条は、胆沢の地を「水陸万頃[すいりくばんけい]」と記している。「水陸万頃」とは、水と土地(陸)が豊かな(万頃)さまをいう。
この地を初めてみた人々は、「ここには豊かな水と広々とした大地がある。この二つを結びつける用水開発さえ行えば、豊かな生活が実現できる。」──こう考えたに違いない。
胆沢平野の開発は、天水や湧水、あるいは扇状地を切る沢水の利用に始まり、胆沢川からの引水によって本格化した
安倍氏は、胆沢川から水路を引き、胆沢平野の原型をつくる。角塚周辺が、沼地となるほど、水路が充実していた。現在の徳水園・円筒分水口から開鑿。水が調整できないため、度々、胆沢平野は氾濫した。これが、安倍氏時代の掃部長者物語に現れている。角塚周辺からは、稲穂を刈り取る道具が発見されている。蕨刀が古墳から発掘されたおり、権力者の墓である。愛宕の鹿合には砂鉄川があり、鍛冶屋が存在していた。農耕用に使われたほか、一関の舞草刀のように、刀も製造されていたと考えられる。
・角塚前方後円墳(700年)
朝廷の子孫であり、技術を胆沢に取り込み開拓した功績がある有力者の古墳である。
・阿弖流為降伏
産金がはじまり、朝廷側の搾取がはじまる。まつろわぬ者、蝦夷、または鬼と表現され敵として、蔑視された。阿弖流為は、多くの親族を失い、胆沢城が建設され、同族の裏切りもあり、断念して降伏を決意した。しかし、斬首される。悪路王甥の人首丸は、最後まで抵抗しつづけたが、戦死した。その後、地震や疫病が頻発した。朝廷側が祟りと恐れ、慈覚大師円仁を遣わして、亡霊を弔い、復興のきっかけをつくる。坂上田村麻呂も、蝦夷の墓に、十一面観音をつくり、弔った。今の、江刺三十三観音である。
・前九年合戦
安倍頼時、貞任らは、祖先の霊を弔うため、これら寺院を守ってきた。産金は盛んに行われ、この財源を、寺院の建立や維持に充てた。さらに朝廷側の侵略が強くなる。前九年合戦がはじまる。源氏は、安倍氏の姻族清原氏を味方にして、安倍氏を滅ぼした。
藤原氏は、敵と味方の血が混在した複雑な家系に生まれる。政略結婚が代々続き、身内の紛争で、後三年合戦で共倒れとなる。源氏は、金山の経営権や舞草刀の技師を奪っていった。
安倍氏は、稲作から産金、宗教の発展と、政治に貢献した。