胆沢開発史39
朝廷と交渉をもった政庁が置かれる
名取郡以北に、原住民の中ですぐれている者を朝廷の出先機関として任命したのが、・・・胆沢公の祖(角塚古墳)と思われる。
8世紀は胆沢郡以北を胆沢公阿奴志古、胆沢川以北の分郡した江刺郡(金ヶ崎方面)を胆沢公毛人・・・胆沢公阿奴志古は、792年頃志和に転出している。
胆沢公の祖とは
胆沢開発史54
蝦夷の長に君の姓を賜る
710年、陸奥の国府は、「朝廷政策に従順な蝦夷の頭目に君の姓を賜るよう」に上申し、朝廷より許可されている。つまり、北陸奥の蝦夷にはじめて「君姓」をあたえている。続日本紀715年に、「邑良志別ノ君」とある。
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登米郡で生活していた邑良志別ノ君一族子孫も、749年の頃胆沢に移配合流させられ、入植させられたのではないか。
角塚古墳は埴輪から5世紀第3四半期と想定
角塚古墳の成立の背景はこういった集落を通して考えるとよりわかりやすいかもしれない。角塚古墳は日本列島最北端に位置する前方後円墳として数度の調査が行われている。その結果、全長45m、 後円部2段、前方部1段築成の前方後円墳であることが明らかにされている。後円部平坦面には円筒埴輪を中心とする埴輪が並べられており、前方部には形象埴輪が樹立されていたと推定されている。年代は出土遺物(埴輪)から5世紀第3四半期と想定されている。このように中期までには集落が順調に発展していく過程が読みとれるものの、後期(6世紀)以降になると急激に集落が確認できなくなる。わずかに膳性遺跡などで竪穴住居跡が確認されたのみである。この点については、これまでの調査対象の制約や土器編年上の問題、あるいは集落の減少によるものかは定かではない。いずれにしてもこの時期はこの周辺のみならず広く不透明な状況になっている。