赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

照井館「太郎高晴(1189)」は、代々照井堰を開削した家系。現在の堰は「世界かんがい施設遺産」に。1500年頃は白鳥郷主ともある

【当調査】

照井氏は、初代高春(1189)から数代まで白鳥への開堰にあたり、一関の照井堰の開堰へと移っていったのではないか。照井館の館主は初代の高春だけである。館には子孫が住んでいたか。

 

岩手県史には、白鳥邑「照井舘」館主に「照井太郎高春」とある。前澤町郷土史には「照井高信?」、前沢町史は「照井太郎高春」。

【前沢歴史の会本平次男氏】

高春は白鳥の照井館主。開堰事業の最高技術のサイホンやトンネル工事を生かし、奥羽山麓から、荒地だった伊澤扇状地に灌漑用水を引き、その末水で白鳥地区の産業を起こそうとした当代稀な事業家。

照井高春は藤原秀衡の家臣であるが、平泉滅亡後は奥州総奉行に任ぜられ当知行政を担った葛西氏に仕え、開堰事業に功があった。高春の後裔は照井太郎忠基(数代後裔)隆定(曽孫)ー荻右門ー荻之丞ー掃部右ェ門(照井堰の解剖、附照井掃右ェ門の字事績)。

高春の長子は高直。照井太郎の出身地は一関中里村、藩政時代まで照井村で照井神社もある。

一関と平泉の用水路を開堰したひとであるが、胆沢川の馬留橋(胆沢ダム付近)のあった下の取水口より、前沢の白鳥川に引水しようと開墾した用水堰もある。

子孫照井三郎は、一関の照井堰試掘のため「穴山堰」を開削し、前沢の白鳥川に通水すべく」とある。

 

前沢町郷土史史料】

〇照井館(白鳥村風土記

 南北60間 東西34間

 照井陣場との中伝候、藤原秀衡の時御家臣照井太郎陣場の由申伝候

〇照井高信陣場跡(封内名跡志19)

 衣川の西日虎山にあり、泰衡の臣輝井高信陣場の跡也

 以上二跡一同所也

 【前沢町史】

風土記に「藤原秀衡の家臣、照井太良陣場の由、伝えられている」とあるから、秀衡の功臣照井太郎高春(1189-)の居館跡である。

 

【本平次男「束稲の唄・90」】

照井太郎高春(1189)は藤原秀衡の家臣であるが、平泉滅亡後は奥州総奉行に任ぜられ当地行政を担った葛西氏に仕え、開堰事業に功があった人物との説がある。照井堰を最初に企画、開堰したのが照井太郎高春で、その下流の水路は高春の子の高安が継ぎ難工事を続行したと考えている。照井太郎は、家系の襲名のように代々使われたものである。

【胆沢平野50周年誌】

1189年 照井太郎高春

1221年 照井三郎

1225年 照井氏

1492年 照井太郎

1493年 照井氏

?   照井太郎(白鳥郷主)

 

【照井土地改良区年表】

 

文治5年(1189年)  照井太郎高春開削

明応2年(1493年) 照井太郎高安開削

【一関市ホームページから照井堰】

一関市と平泉町を流れる照井堰用水(てるいぜきようすい)が「世界かんがい施設遺産」に登録され、平成28年12月14日(水)には、農林水産省において登録証の伝達式が行われました。

照井堰用水について
 照井堰用水は、岩手県南部の一関市、平泉町に位置しており、一関市を流れる磐井川(いわいがわ)をせき止め取水、一関市内は中里沖(なかさとおき)までかんがいし、平泉町を流れる水路は衣川(ころもがわ)に落水するまで、途中1.2キロメートルにもなる隧道を通り、幾筋にも分れ流れる総延長64キロメートルにも及ぶかんがい施設です。
 今から800年以上も前に奥州藤原氏 (おうしゅうふじわらし) 三代藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の家臣、照井太郎高春(てるいたろうたかはる)により開削され、先人たちにより幾多の改修工事が行われ、現在も1,073haの水田に用水を供給し、地域の稲作を守り続けてきており、世界文化遺産である平泉の毛越寺(もうつうじ)浄土庭園(じょうどていえん)の大泉が池(おおいずみがいけ)に注ぎ、曲水の宴(ごくすいのえん)の遣水(やりみず)の水源にもなっています。
 照井堰用水は、農業や地域の振興をはじめ、自然・景観・文化など国土、農村環境の保全形成に貢献しているとともに、地域が適切に管理しているとして、平成18年には「疎水百選(そすいひゃくせん)」に認定されています。

「白鳥邑 手類之舘」は「白鳥邑 照井館」か。

下屋敷から発見された由緒は3種類あり。古い順に

①「安倍家系図」から書き出しがはじまる系図・・・由緒と初代から2代目まで

②「磐井郡東山」からはじまる系図・・・由緒と初代から5代目まで

③「磐井郡東山」からはじまる系図・・・由緒と初代から5代までと、浪都座頭下家舗元祖から6代まで

 

白鳥邑の館名は古い系図には次のとおり記載

①白鳥邑手類之舘

②白鳥邑午類之舘

③白鳥邑午類之舘(「手」と後から訂正もあり)

1次資料は、3点の資料のうち一番古い「白鳥邑手類之舘」

 

石巻市生涯学習課泉田氏】

「手類之舘」であり、てるいと読み、「白鳥邑 照井館」ではないかと教えていただきました。

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【照井館とは】

同じ白鳥村にあり白鳥舘から西に3キロほどで、高台にあるところ。照井氏追善供養碑もあるという(仙台領内古城・館)。

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岩手県史4・21 城館主名には次のとおり

白鳥

白鳥城址(鵜ノ木)白鳥八郎行任のち白鳥治部少輔、天正中まで、のち天正中佐藤豊後岩淵伊賀、天文三田主計白鳥八郎、小野寺入道某(柏山伊勢守良従)照井館(太郎高晴 新城館 熊谷直胤一万一1千刈加賜)

 

 

 

 

【照井氏の供養塔 昭和5年造立 】

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供養塔は水田わきにあり倒れている。

花巻居住の後裔の追善塔という(本平次男「束稲の唄)。

 

 

 

 

赤生津安倍家系図の「藤原之清衡より三代使えり、高舘落城し」の「高館城」は平泉

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北上川奥の左には、「白鳥舘と照井館」河の右には赤生津

 

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  岩手県西磐井郡平泉町平泉字柳御所14

 

岩手県史4・26頁】

仙台管内村・城舘・城館主名及び在家表

平泉 高館城(藤原秀衡、後、源義経

  民部少輔基成のち義経、阿土城(安土日向守)

 

 

 

寛文6年(1666)赤生津村では北上川悪瀬で難破船の救済など人手不足から訴状。白鳥邑牛類(水制)も説明がつく??

 

 岩手県南史談会研究紀要「近世に於ける北上川舟運についてー東山・西岩井を中心としてー」八巻一雄氏

岩手県南史談会研究紀要「北上川の舟運と艜舟の難破」千葉明伸氏

大石家の記録から、赤生津の北上川の悪瀬(危険な所・場所)のため難破が多く、艜下り河版を毎日3人交代と、御石船が通るときは、出人足24人割り当てられ、難破があれば村で多数の人足を出仕しなければならない。

赤生津村では難破船の救済や川番人足のとして何度も狩りだされるので、村民に不満がり訴状を起こしている。

 

【当調査】

1590年当時は、北上川が蛇行していないが、難破船が多い難所であった。地図上では中州も多い。安永4年(1775)東山西磐井船所によると、母体、赤生津、長部、小島、舞草、相川、門崎、薄衣と船着き場がある。白鳥港は葛西時代までである。赤生津の対岸の白鳥舘周辺も難所であり、水制(牛類)が必要な場所でなかったかと推察する。

奥州市歴史遺産課では、「白鳥牛類之舘」を未見であるとしている。また、「牛類」を誤訳でないかともいうが、安部本家が書き写しした子孫の由緒記録には「牛類」とあり、岩手県南史談会研究紀要掲載の安部の出自を尋ねて第3報81頁にも「牛類」と記してある。

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赤生津切支丹を墓字から探る

キリシタン墓字の研究は近年はじめられた。

キリシタン岩手県南史談会に取り上げはじめられたのが、研究紀要第15号(昭和61年)。山目円満寺檀家のキリシタンが多く、阿部随波も切支丹ではないかとという。「理解ある人々の解放資料」により証明してくれる時代も遠くいないと締めくくった。平成19年度研究紀要に「一関地方のキリシタンキリシタン墓字が掲載される。惜しくも畠山氏は令和2年に亡くなり、研究を継ぐ者は見られない。

 

赤生津のキリシタンは、岩手県史に類族人数、前沢町史に人別帳に類族の屋敷掲載がある。キリシタンの功績、事実などは知られていない。

 

赤生津 長根地内(大石家)

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岩手県南史談会研究紀要第37集(平成19年度)「一関地方のキリシタン」畠山喜一氏

「心 卍 Ⅽ(釣針状)」は切支丹墓字という。畠山氏は、切支丹殉教者の功績や慰霊に務めていきたいと研究紀要を締めくくっている(平成20年6月)。畠山氏は昨年亡くなられた。

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 赤生津の安部家以外の旧墓地2ケ所にはこの墓が存在する。赤生津には安部家以外に2家(大石家、鈴木家?)が切支丹であったと考えられる。大石家は白鳥家臣、肝入、生母村長など、鈴木家も肝入、養蚕業開拓、参議院議員などで地域に貢献してきた。

 

赤生津 長根地内

 

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赤生津 荒屋地内

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 赤生津肝入は、大石家、鈴木家が長く務めた。人別帳は鈴木家が所有しているが、前沢町史には屋敷名を伏せている。公表していない。肝入であり切支丹であった可能性がある。

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第7報に関する関係者所見

奥州市歴史遺産課担当】

白鳥邑「牛類」之舘は未見。白鳥邑には3館あるが、この名は見当たらない。(天正(1590年)のころ)当時の北上川は蛇行でなくほぼまっすぐであり、水制は必要ないのではないか。赤生津側岸の杭は土留め系図には「午類」とも見える。午類だと意味はわからない。見解を出すにはまだ早いのではないか。

 

【赤荻下屋敷安部家】

一関側では赤生津安部は親類と見ている。安部外記之介が白鳥舘にいたか、それ以前の代のことはわからない。

 

 

第7報 葛西家臣安部小次郎と赤生津安部初代が同一人物であることの再検証(第3校)

 

「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて

第7報 葛西家臣安部小次郎と赤生津安部初代が同一人物であることの再検証

 

1 概要

戦国期、衣川安倍一族の末裔と伝える磐井郡赤荻(一関市)の葛西氏家臣の安部氏は、外記之介を祖とし、気仙郡浜田の乱に調停者として活躍し、葛西晴信から胆沢郡赤生津村(奥州市前沢)地内に五千苅の地を給与されている。赤生津村に、十郎左衛門を祖とする安部家があるが、赤荻安部家とのつながりは不明である(1)。この研究は、衣川安倍氏から葛西家臣となり、没落後の帰農、そして伊達家臣へ再起した赤荻・赤生津安部一族を検証するものである。

第7報の目的は、天正18年(1590)の豊臣秀吉の奥州仕置きの時代に焦点をあて、葛西滅亡後に分散したと考えられる赤荻安倍と赤生津安部の血縁としての結びつきを検証することにある。天正18年赤生津東館の住人であった葛西家臣安部小次郎が、没落後に赤生津に帰農して安部肥前と改名し、赤生津安部の祖となる事実を探求するものである。

新たな史料は、①磐井東山赤生津邑畑家舗安部家之由緒書(5代兵部(1645-1715)作成赤生津下屋敷所蔵)、②天正16年(1588)安部小次郎宛葛西晴信感状(石巻市所蔵)、③赤生津安部家旧墓地の「切支丹墓字」墓石2基、④赤荻安部系図覚書と過去帳(赤荻下屋敷阿部本家所蔵)である。由緒には赤生津安部が葛西家臣と記され、小次郎の晴信感状は石巻市役所に保管されていることが分かった。また、岩手県南史談会畠山喜一氏のキリシタン研究を参考とし切支丹墓字を安部家先祖に見つけ、これにより出自隠蔽の原因を特定した。さらには、赤荻安部家系図覚書には安部外記之介の孫「左近小次郎は赤生津安倍」と記され、系図上は赤生津に子孫があることを確認した。そして、過去帳(系譜)の没年から、安部小次郎と赤生津安部初代肥前の年代一致による同一人物と結論付けたのである。

 

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①小次郎宛葛西晴信感状

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②赤生津安倍家由緒書

 

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③安部家旧墓地の切支丹墓字

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④赤荻下屋敷阿部家5代まで戒名・没年

 

1 はじめに

(1)研究の背景

豊臣秀吉の奥州仕置による葛西没落後に、葛西旧臣から伊達家の家臣となった一族は35家である。百石以上の家臣を網羅した「伊達世臣家譜」では、「磐井郡赤生津村安倍」を祖とする阿部隋波(禄高300石)が伊達家臣としている(2)。

しかしながら、地方史研究では、赤生津に分立した葛西家臣安部小次郎は、天正18年(1590)葛西没落とともに一関赤荻に帰農したと考えられており、赤生津に19代続いた安部家は、史料不足から子孫と特定することが困難であった。

 この研究は、現在の赤生津安部一族が、葛西家臣安部小次郎の子孫であることを検証するものである。「赤生津・安部氏の出自を尋ねて」の研究は、故安部徹良氏と兄妹が平成21年から平成27年まで第6報にわたり研究紀要に発表し、一関赤荻への帰農がないことを検証した。小次郎の赤生津移住年代と赤生津安部初代の推定年代を比較する研究方法で、史料不足により誤った結果を導いた。さらには、安部徹良氏の逝去により研究は中断した。

(2)課題提起

葛西家臣の安部小次郎の子孫が、赤荻や赤生津にも存在しない結論とならないように、第7報は別の著者が引き継ぎ、新たな史料の発見から小次郎が赤生津の祖先であることを検証し、地方史に検討を加えるものである。

 研究課題は、なぜ、葛西家臣であり白鳥舘に居住していたという「磐井東山赤生津邑畑家舗安部家之由緒書」が約400年もの間、公開されないでいたか。なぜ、「安部小次郎宛葛西晴信感状」が、石巻市収集家の古毛利総七郎(1888-1975)に渡り、石巻市役所毛利コレクションに所蔵されているのかである。そして、安部小次郎の子孫が赤生津に隠されたままであったのかである。そして、生没年のない赤生津安部家系図からどのように初代と安部小次郎の年代を一致させ、同一人物と確証を得るかである。

(3)課題解決と達成すべき目標

磐井東山赤生津邑畑家舗安部家之由緒書の検証

 本家畑屋敷(19代まで)、4代から分家の長根屋敷と下屋敷、7代分家の前畑屋敷、山ノ神屋敷には、安部家系図はあるが1枚目の「由緒書と初代」が欠落し、衣川安倍の子孫と伝える伝承禄が残るのみであった。当調査により下屋敷の古文書の中に5代兵部が書き写した由緒書きが発見されたが、地方史にない事実もあり検証が必要である。

葛西家臣安部小次郎が赤生津安部祖である地方史の検証

 確かな証拠に、伊達世臣家譜「赤生津安倍」があり、赤荻安部外記之介と赤生津安部小次郎宛葛西晴信感状がある。岩手県史はじめ市町村史の史実となっている。しかしながら、安部小次郎の子孫が赤生津安部家とつながる証拠や史料がない。さらには、近年の石巻市の葛西晴信偽文書研究により、気仙浜田の乱に参陣した武士の軍功感状にも疑問があると石巻市からの指摘がある(3)。この参陣諸氏には、外記之介、小次郎が含まれており、大きな問題ではあるが偽文書に対する何らかの検証が必要である。

豊臣秀吉による刀狩と兵農分離、切支丹弾圧による赤生津安部出自隠蔽の調査

 葛西家臣である重要史料の発見が遅れ、事実が隠蔽され風化する最大の原因は、兵農分離による氏素姓(家柄、家系)の抹殺(4)と、子孫が切支丹(推定1665-1735年)である。殉死あるいは類族となった可能性も高く、事実調査しなければならない。

赤生津安部初代と安部小次郎の年代一致

赤生津初代を特定するための、生没のわかる世代から遡る計算方法の確定である。赤生津安部初代から12代までの先祖の生没年が不明である。小次郎の先祖である赤荻安部家の戒名碑没年と照らし合せ、同一人物であることを試みるものである。

 

2 研究方法

(1)磐井東山赤生津邑畑家舗安部家之由緒書の検証

 

安倍家系図

 磐井東山赤生津邑畑家舗安倍家之系図

 虫食古損二附書写叓

安倍頼時之七男比與鳥七郎則任衣川厨川西城落城ㇾ而之没降人成伊澤白鳥邑牛類之舘住居先室厨川之堀沈没(俊) 室ヲ女取テ其子孫同所良久其後(俊)鎮守府将軍藤原之清衡ヨリ三代使エリ 葛西臺破守清重家臣ㇳナリ拾七代使エリ 葛西没落後成 午類之舘二居住不叶二而 東磐井赤生津邑二移ス 其治代安倍肥前ト云フ

㊀安倍肥前

伊澤白鳥邑牛類之舘二住居不叶而 東山赤生津邑二移 浪人ス 愛宕(堂)造立則比所住居也

㊁安倍市良左衛門義里

同苗肥前嫡子也 同邑比畑家舗移 浪人也

由緒書のうち葛西没落後に白鳥舘から赤生津に移住した初代安倍肥前の存在の証明のため、由緒の「白鳥村牛類之舘」と「愛宕堂」の事実を調査する。衣川安倍氏時代から葛西没落前の時代の由緒書きは次回の研究課題とする。調査手順は次のとおり。

①安倍肥前の条「葛西没落後に落城し、伊澤白鳥邑牛類之舘に居住が叶わず、そして東山赤生津邑に移り浪人となる」に関する聞き取り調査

②「愛宕堂を造立し、その所に居住する」の現地調査

(2)葛西家臣安部小次郎が赤生津安部祖である地方史の検証

地方史と研究の現状

明治29年に「伊達世臣家譜」が発行されたことにより、伊達家臣に赤生津安部小次郎があることが知られ、現在の赤生津安部家や、小次郎の祖父である赤荻阿部との関連があると見ている研究者が徐々に増えてきた。

例えば、岩手県姓氏歴史人物大辞典では、磐井郡赤生津村(奥州市前沢)に、十郎左衛門を祖とする安部家がある。「磐井郡赤荻(一関市)安部外記之介を祖とする」安部家との関係は不明だが、同家は寛永年間までに数代を経ていると伝える(安永風土記)とある。

これは、伊達世臣家譜の赤生津安倍で、赤荻と赤生津の安倍が関係しているにも関わらず両者を結びつける決定的な史料が不足しているため断定できないままである。

 「赤生津・安部氏の出自を尋ねて」の著者安部徹良氏は、手探りでの研究により岩手県南史談会研究紀要への掲載を続けたところ、一関市文化財調査委員から「安部小次郎と安部十郎左衛門は同一人物」という示唆があった。

平成23年岩手県南史談会研究紀要「安部外記之介論考~安部徹良氏論文と関連して~」(5)では、一関市文化財調査委員小野寺啓氏が、安部小次郎重綱の帰農について次のように述べた。小次郎が赤荻に戻り帰農したとの史料は、一関側では未見である。「赤生津安部氏」の祖となったとの所説は史実のように思える。赤荻・下袋安部系図では、帰農したのは安部外記之介の嫡孫・大学(小次郎の兄)である。(略)白鳥氏が東城の城主であった時期には、小次郎は東城の「住人」ではなかったのか。白鳥氏の撤退後城主となり、葛西氏没落後は赤生津で帰農したと考えるのが自然ではなかろうか。

第6報の考察修正

これらの考察を踏まえ本研究では、平成27年の第6報「赤生津安部初代と小次郎の流落に直接的な関係は考えられない」結論を、「同一人物とみなす」考察への修正に向け、葛西家臣安部小次郎と赤生津安部初代が同一人物であることの年代的一致の再検証を行わなければならない。

(3)豊臣秀吉による刀狩と兵農分離、切支丹弾圧による赤生津安部出自隠蔽の調査

安部小次郎が受けた奥州仕置きと、赤生津安部家への切支丹弾圧

 赤生津東館が受けた奥州仕置きに関する史料調査と、赤生津安部家が切支丹であり、受けたであろう弾圧を検証する。

安部小次郎宛葛西晴信感状の紛失と晴信偽文書に関する調査

 想定される紛失の理由と時期、収集家毛利氏に渡る経過を聞き取り調査する。また、石巻市の葛西晴信偽文書目録によると、晴信文書香炉印の違いから、浜田の乱の参陣した諸士の感状がほとんど偽文書にあたるという(3)。安部外記之介と安部小次郎の感状も該当するが、これに関する調査と所見をまとめる。

安部小次郎から肥前への改名に関する史料調査

 出自を隠蔽せざる得ない刀狩や兵農分離、切支丹弾圧などの時代背景や、周辺地域の史実を調査する。

(4)赤生津安倍初代と安部小次郎の年代一致と系図の見直し

赤生津安部家と赤荻阿部家の系譜調査

 赤生津安部分家のうち10代以上の山ノ神屋敷、長根屋敷、下屋敷、前畑屋敷の系図を収集する。赤荻阿部の総本家の系図と墓碑から安部小次郎の子孫を調査する。

両家の系図的つながりの調査

安部小次郎の墓碑や子孫が一関赤荻にない証拠と、赤荻阿部総本家の系図上の小次郎と赤生津安部との接点を調査する。

 

3 結果および考察

(1)磐井東山赤生津邑畑家舗安部家之由緒書の検証

①安倍肥前の条「葛西没落後、伊澤白鳥邑牛類之舘に居住が叶わず、東山赤生津邑に移り浪人となる」の調査

ア 白鳥舘落城により赤生津に移住した赤生津安部初代

 天正18年の奥州仕置きにより白鳥舘は落城した。秀吉の城破却は謀叛(むほん)を未然に抑止する命令である(6)。城を減らし現在の前沢地域でいう前沢城のみとした。安部家由緒は、没落後白鳥から赤生津に移住とあるが、伊達世臣家譜(7)では、葛西没落3年前の天正15年に赤生津に移住し、天正18年の葛西没落に遭うとある。由緒書では没落後やむをえず赤生津に移住とあるが、伊達世臣家譜では、天正中に赤生津に移住後に没落というくい違いがあるが、その差は3年間である。

赤生津邑畑家舗安部家之由緒書

赤荻阿部家由緒略記(阿部隋波考証)

伊達世臣家譜

(祖は衣川安倍氏

葛西臺破(壱岐)守清重家臣となり拾七使える。葛西没落(天正18年1590)となり、伊澤白鳥邑牛類之舘に居住が叶わず、東磐井赤生津邑に移る。その先代安倍肥前と云う。

(祖は衣川安倍氏

後代外記之助に至って葛西晴信に仕え家老職に在り。上野、左近(赤生津安部の祖小次郎)、大学、その次男讃岐に至り、葛西家は没落し、安部一族も分散したので仙北に逃げた。其の後磐井郡に帰り来たって赤荻下袋に住した。

安部小次郎重綱葛西家に仕え、天正中磐井郡赤生津に住み、五千刈の地を領す。後、葛西家亡(滅亡)に遭い、大学(小次郎の兄)流落。

胆沢郡や西磐井郡東磐井郡における葛西家臣の安倍は、伊達世臣家譜と葛西氏家臣団辞典でいうと赤生津安部と赤荻安部のみである。安部肥前の名は、地方史にないが、赤荻安部外記之助の孫安部小次郎であると推察する。伊達世臣家譜における赤生津安倍の祖は小次郎であり、安部家由緒の肥前と同一人物といえる。

イ 赤生津東舘落城により仙台仙北へ逃れた白鳥氏と(赤荻)安部

白鳥舘と赤生津東舘は本城と支城の関係といわれ城主が白鳥治部または白鳥民部である(8)。葛西真記録「葛西御家臣衆座列」には白鳥治部の名があるが、「東城ノ住」とある。「住」とは「寄宿」の意味であるが、「城主」は誰であったか。東舘家臣の大石家系図では、葛西没落後当主(東舘)は大崎へ落ちたとある(8)。赤荻安部は仙北へ逃げたが、どちらも仙台藩の仙北地域であろうか。

岩手県史の天正期に見える赤生津安部と白鳥氏

白鳥城 白鳥八郎行任のち白鳥治部少輔、天正中まで 

東 館 天正(安倍小次郎重綱)、白鳥治部少輔(白鳥民部?)

1588年 浜田征伐(恩賞関係晴信文書)     赤生津安倍小次郎

1590年 奥州仕置軍迎撃葛西将士名表(古文書) 白鳥民部(赤生津)

ウ 白鳥邑牛類之舘の「牛類」とは

畑屋敷本家の書き写し由緒にも「牛類」とある。「牛類」は水制で船着き場の波除の役割がある。天正当時は北上川は蛇行していないものの難破船が多い難所であった。寛文6年(1666)赤生津村では北上川悪瀬で難破船救済など人手不足から訴状を提出するほどである(16)。奥州市歴史遺産課ではこの「牛類」を未見とし、慎重な見解のため今後の課題とした。

愛宕堂を造立し、その所に居住する」の現地調査

 愛宕堂は生母青木地内にあり畑屋敷から東の束稲山に向かい600m地点にあり、北上川と白鳥舘が見下ろせる高台にある。一般的には知られることのない祠であり、昭和年代まで畑屋敷本家や分家が代々、正月など参拝してきた。安部の神社、愛宕神社とも伝えられる。

(2)葛西家臣安部小次郎が赤生津安部祖である地方史の検証

第6報の年代的一致の検証の修正

第6報「赤生津安部初代と小次郎の流落に直接的な関係は考えられない」結論(15)を、「同一人物とみなす」考察への修正とする根拠を示すものである。赤生津初代の生没年を特定し、安部小次郎の生没年と一致を試みた。前回は赤荻阿部家と赤生津安部家の生没年と世代間年数が分からない中での試算であったが、今回は赤荻阿部家の協力により、安部小次郎の生没年が特定。赤生津安部家では、4代将監の生年が岩手県史4巻「赤生津村五人組及び組頭名簿(799頁)」から特定できた。1世代の年数を、4代将監から戸籍で生没のわかる13代の間の平均とし、「1世代間20年」とする。前回用いた1世代年数は「最小22年、最大26年」で、岩手県史にある江戸初期当時の平均であった。4代将監の生まれ年から1代20年で遡ると、赤生津初代の生没年は1565年-1635年となり、安部小次郎の兄、大学の没年とほぼ一致。よって、安部小次郎は、赤生津初代の安部肥前であることの年代的な一致を見た。これにより、第6報「赤生津安部初代と小次郎の流落に直接的な関係は考えられない」結論を、「同一人物とみなす」考察へ修正するものである。

「赤生津安部家の世代間年数の特定と、初代に遡る計算方法」の修正

項目

安部徹良氏による赤生津安部初代当主が居住した年の推測

当研究による赤生津安部初代の生没年の推測

逆算する年代

5代兵部(三四良)が御引竿を受けた1642年(生没年ではない)

4代将監(惣右衛門)が組頭名簿(岩手県史4巻)により1625年生まれ

1世代遡上年数

最小22年、最大26年

1世代20年

遡上年数根拠

岩手県史「この時代の人頭の1世代は22年~26年位」

赤生津畑屋敷の平均的世代間年数

4代将監から戸籍で生没のわかる13代の間の平均「1世代間20年」

結論

1538年から1554年の間(小次郎が居住し奥州仕置きで去る1590年よりほど遠い)

初代肥前は、およそ1565年生、1635年没。小次郎の兄大学の没年1635年と一致。平均年齢は13代から19代の戸籍から平均70歳とする。

赤荻阿部家と赤生津安部家の先祖没年

赤荻系図は代数有之御百姓名簿書出(一関市史70頁)と一致し、赤生津初代肥前(白鳥から移住)は系図のみにあり、2代目以降から御百姓書出と一致している。

赤荻下袋屋敷 安部家

赤生津畑屋敷 安部家

没年(戒名)

没年(推定)

初代

外記之助

1590

 

 

 

2代

上野

1612

 

 

 

3代

大学(小次郎兄)

1635

初代

小次郎重綱 肥前

1635

4代

豊前

1650

2代

十郎左衛門

1655

5代

太郎兵衛

1675

3代

兵庫

1675

6代

對馬

1668

4代

将監(県史・組頭年齢から1625生)

1695

7代

太郎兵衛

1671

5代

兵部

1715

(3)豊臣秀吉による刀狩と兵農分離、切支丹弾圧による赤生津安部出自隠蔽の調査

安部小次郎が受けた奥州仕置きと、赤生津安部家への切支丹弾圧

 天正18年7月安部外記之介が亡くなり(戦死ではない)、8月の秀吉の奥州仕置軍を迎え撃った(あるいは逃亡した)のは赤生津東舘の外記之助孫の小次郎と白鳥治部少輔である。秀吉の命令に逆らい小田原に参陣しない葛西家臣の居城は倒壊、追放され領地没収となる。記録は悉く散逸し、詳細の事績を知ることはできない(柏山氏の没落から)。

当時は東磐井郡の田河津金鉱山が盛んで、多くの切支丹が潜伏していた(9)。隣接の赤生津にも切支丹は布教だけでなく婚姻関係からも広がった。赤生津には大石家と安部家が切支丹類族となる。大石家は切支丹との婚姻関係から類族となり、旧墓地には切支丹の墓字「心 卍」などある。安部家の経緯はわからないが、旧墓地に切支丹墓字「釣針状のⅭ」が2基ある。切支丹墓字とは、類族が死後塩漬の上検視されるのを嫌い江戸奉行所に嘆願し、切支丹墓字を刻むことで検視を逃れるものときく(岩手県一関市東山町のキリシタン 真楽寺實水の建白書)。その墓字には「一 心 C(釣針状) 卍」などがある。赤生津安部の畑屋敷・山ノ神屋敷・前畑屋敷の旧墓地にある「釣針状のC」墓字は、畠山喜一氏「東磐井郡キリシタン遺跡」によると殉教者の墓と推察。Cマークはキリスト教を表す頭文字で、厳しい弾圧にも屈せず所成敗(ところせいばい)され、処刑は逆さ吊り(倒懸)という(9)。

当時、切支丹は主君のための切腹や殉死など封建的習慣を自殺行為と否定、支配者からすれば叛逆思想であり封建社会の秩序をみだすことから、支配者の地域を危うくするものととらえられていた。元和6年(1620)秀吉の禁教令により「将軍の意思に反して切支丹になった者は第一の罪人として棄教を命ず、これに反する時は財政を没収し、追放域は死刑に処す。切支丹信徒を訴え出ずる者には報償と賞金を与う」(10)。前沢の古城や白山など寿庵堰の延長に携わる多くの殉教者がいる。貞享4年(1687)切支丹根絶策の類族改制により類族を男系5代、女系3代にわたり監視し幕府の宗門改役に肝入から報告されることとなる(11)。子孫や親戚の詮索のための調査から安部本家、分家から系図が没収されたと考えられる。

安部小次郎宛葛西晴信感状の紛失と晴信偽文書に関する調査

安部小次郎宛の葛西晴信感状は、浜田の乱という葛西領内での内紛を鎮めるために参陣した家臣らが軍功による領地を与えられたものである。小次郎祖父の外記之介も仲裁により赤生津に五千刈を与えられているが、現在の赤生津安部本家、分家の農地がこれにあたると考えられる。感状は一族の宝であり葛西家臣であることを証明する重要文書である。しかし、岩手県史によると、小次郎感状の所有者は石巻毛利とある。調査により石巻市在住の収集家毛利惣七郎(1888-1975)が、石巻市役所に寄付し毛利コレクションとして展示されている。小次郎は赤生津東舘の住人であった。東舘の家臣は大石家であることから子孫の大石喜清氏に、所有者の手元を離れた理由を尋ねると、大石家は慶長年間(1596-1615)に、系図を紛失した記録があり、藩が提出を求めたか没収したという。兵農分離や刀狩で反発する浪人の取り調べもあったと考えられるが、大石家と安部家は調査から切支丹であることが分かり、弾圧と類族調査のために没収されたのではないかと推測。大石家の場合、明治時代になり藩が所有していた系図が収集家に買い取られ、大石家に売り渡したという。赤生津安部本家と分家には、由緒と初代のみの系図がなく、口碑伝承のみが残っている。おそらく、安部小次郎感状と安部家の由緒も、慶長年間に没収されたと考えられる。

小次郎感状が葛西晴信偽文書であることは、小次郎感状を保管している石巻市教育委員会からの指摘である。石巻の歴史第6巻「葛西晴信黒印状について」(3)などに基づき香炉印に相違があるなどの見解であるが、偽文書目録によると、浜田の乱で軍功をあげたほとんどの家臣の感状が偽文書となる。これは、浜田の乱そのものが偽りであり実在しないと見なすことに等しい。「浜田の乱」とは、豊臣秀吉の奥州仕置きを招く重大な出来事である。葛西晴信が領内の家臣同士の争いに気を取られ、秀吉の命令である小田原征伐への参陣ができずに、秀吉の仕置き軍を迎えた最大の原因となった(12)。石巻市では、葛西晴信発給文書の偽文書が江戸時代の仙台藩領で作成されなければならないか、明確な答えがまだないという。浜田の乱は天正16年、奥州仕置きは天正18年であり、この混乱期に46人の参陣者に知行地の賞与を含め感状の発給が遅れたのではないか。秀吉の領地没収により伊達藩の領地となってから、何者かが参陣者の要請にこたえて文書発給をしたのではないか。安部小次郎感状のあて先は、「東磐井郡赤生津住人」と感状や岩手県史にある。46人の浜田の乱参陣者のあて先は、役職でなく住人や個人名も多いことから葛西家臣の剥奪後に与えられた文書ではないかと考えられる。葛西氏家臣団辞典別冊では葛西史に詳しい武士階級の者が修史のために行ったとも考えられている(13)。

安部小次郎から肥前への改名に関する史料調査

 秀吉の奥州仕置、刀狩や兵農分離、検地において、反抗するものはすべて撫で切り(皆殺し)の時代である。葛西没落当時の周辺地域の地方史には、①秀吉の刀狩を恐れた浪人の帰農や改名、由緒など系図の隠匿四散、②兵農分離のためによる氏素性(出自・家柄・家系・経歴など)の抹殺などが見られる(4)。また、兵農分離により農民は国名官名を称することが禁止となる。この影響もあり赤生津安部初代から5代が改名したのではないか。さらには、6代目頃に切支丹が見つかることから、初代から5代目にも切支丹があるとすれば、調査から逃げるための改名や、4代将監が、畑屋敷から長根屋敷に移住した理由にも関係するのではないか。肝入であり切支丹であった大石家によれば、葛西家臣であった者は、切支丹は肝入と当事者のみの秘密として固く守られ、公にされることはなかったという。

御百姓書出名

改名又は別名

根拠

初代

【推測】小次郎重綱(武士名)

肥前

系図

2代

十郎左衛門(御百姓書出名)

市良左衛門義里

系図

3代

兵庫(御百姓書出名)

十良左衛門義則

系図

4代

将監(御百姓書出名)

惣右衛門(1683)

県史3・192

5代

兵部(御百姓書出名)

三四郎

系図

(4)赤生津安倍初代と安部小次郎の年代一致と系図の見直し

赤生津安部家と赤荻阿部家の系譜調査

当調査により収集した系図は、赤生津下屋敷と山ノ神屋敷から、由緒書、本家畑屋敷、分家の長根屋敷、下屋敷、曽利屋敷、山ノ神屋敷の系図であり、原書に近い由緒書が発見されたのが成果である。この由緒書は、下屋敷の分家が所有していたもので昭和年代で代が途絶え、下屋敷本家に引き継がれたものである。

赤荻下屋敷系図覚書には、安部左近の子孫は「赤生津安倍」とある。子孫は書かれていないが、系図的つながりに疑問はないと下屋敷当主阿部郁夫氏が明らかにした。当家では葛西没落前は、安倍氏を名乗り、天正18年(1590)から安部。さらに赤荻下袋屋敷は、帰農した5代目から安部から阿部に変わる。奥州仕置き後は、弾圧や詮索から逃れるための改姓や改名が多いと考えられる。赤生津安部系図の初代は「安倍肥前」、2代目安部市良左衛門。御百姓書出では初代安部十郎左衛門となる。天正18年奥州仕置きの際に「葛西の臣ら居館を脱出して沈淪、漂白して民間に隠れる(諸家譜)」とあるように、赤生津安部や赤荻安部も舘を脱出したものと考えられる。

両家の系図的つながりの調査

ア 安部外記之介が、宮田城の赤荻(荻)家と婚姻関係で赤生津から赤荻へ戻ったという説の検証

由緒書からいうと「安部外記之介」は赤生津に居住しており領地は不明、事績や先祖も明らかでない(14)。葛西没落後は、姻戚関係のある赤荻宮田城の荻家の地域に移住。姻戚関係というのは、外記之介が荻家の娘婿であり、妻鶴子は荻家19代の叔母にあたる。荻家17代が葛西没落3年前の天正15年に没し、さらには奥州仕置きで18代が佐沼城で敗死しており荻家が危機を迎えた中、赤荻安部家から大学(小次郎の兄)の妹上野が荻家に嫁いでいる。なお、荻家は、藤原泰衡の唯一の子孫であり、現在まで38代の系図(県南史談会研究紀要第30・35集掲載)がある(5)。

イ 安倍外記之介から小次郎(肥前)まで白鳥牛類之舘居住の検証

葛西没落時の天正18年(1590)の白鳥舘と東館の住人は、地方史では、白鳥民部または治部と、安部小次郎である。安部外記之介の代から居住していたとすると、当時は、安部外記之介(70歳)、上野(48歳)、大学(25歳)、豊前(10歳)の家族構成。あるいは、豊前の弟讃岐(随波の祖父)もいたのではないか。この家族は、仙北に一度逃げ隠れてから赤荻に移住したとも考えられる。赤生津に残る家族には、安部小次郎(推定25歳)と子の十郎左衛門(推定5歳)がいる。この一族で、白鳥舘本城または東舘支城(8)を受け持っていたことも考えられる。伊達世臣家譜の赤生津安倍を書いたのは、伊達家臣の隋波の子孫である。小次郎と随波の祖父が同居していたのであれば、随波の先祖が赤生津安部小次郎にあるというのも理由が分かる。

5 まとめ

今後の研究課題として、白鳥氏と赤荻・赤生津安部の関係があげられる。葛西没落後の白鳥治部又は民部の足取りが途絶えている。白鳥舘・東舘の住人として葛西氏に代々仕えたのか、あるいは、白鳥氏が天正期に赤荻・赤生津安部に改姓したのかという推測である。安部外記之助が白鳥氏である史料はないが、両者は衣川安倍氏の子孫と伝えている。

6 謝辞

研究論文第1報から第6報の著者と関係者の安部紀子氏、安部公良氏、森静子氏、安部完良氏はじめ、系図提供やご助言いただいた赤生津の安部万王氏、安部勝氏、及川照男氏、大石喜清氏、赤荻下袋屋敷の阿部郁夫氏、小次郎感状に関して情報提供いただいた石巻市教育委員会泉田邦彦氏に厚く御礼申し上げます。

7 参考文献

(1)「角川日本姓氏歴史人物大辞典3 岩手県姓氏歴史人物大辞典」(1998年5月 角川書店) 第2部姓氏編 安倍・安部390頁

(2)「葛西氏の興亡」(2015年 一関博物館)江戸時代の旧家臣72頁

(3)「石巻の歴史第6巻」特別史編(1992年3月 石巻市編さん委員会)第3章戦国大名第4節葛西文書 偽文書172頁・伊達家臣となった葛西衆242頁

(4)「花泉町史 通史」(1984年 花泉町史刊行会 花泉町史編纂委員会)第7章地頭政治の終幕111頁・118頁

(5)「岩手県南史談会研究紀要第40集」(2011年7月 岩手県南史談会)安部外記之介論考23頁

(6)小林清治「奥羽仕置の構造 破城・刀狩・検地」(2003年10月 吉川弘文館)三 城破却と城普請、駅制 36頁

(7)「伊達世臣家譜巻之十二(平士之部)」(1975年9月 仙台叢書)百三十六阿倍 116頁

(8)「東舘(赤生津城)遺跡発掘調査報告書 五合田遺跡発掘調査報告書」(2003年3月 前沢町教育委員会) 第2節 遺跡の位置と環境2頁

(9)「東磐史学第27号」(2002年8月 東磐史学会 岩手県史学会東磐支部東磐井郡キリシタン遺跡 畠山喜一 25頁・35頁

(10)「仙台領切支丹史1仙台領切支丹文書集成」(1994年8月 仙台領切支丹研究会)キリシタン禁制9頁・10頁

(11)重松一義「東北隠れ切支丹弾圧の研究」(1996年 藤沢町文化振興協会)隠れ切支丹関係年表143頁

(12)佐藤正助「葛西四百年」(NSK地方出版社 1979年10月)奥州仕置軍迎撃葛西将士名表278頁・653頁

(13)紫桃正隆「戦国大名葛西氏家臣団辞典別冊」(宝文堂1990年12月)四、文言上の問題点と真偽の特徴17頁・652頁

(14)「岩手県史第3巻中世編下」(1972年12月 岩手県)108頁

(15)「岩手県南史談会研究紀要第44集」(2015年6月 岩手県南史談会)「赤生津・安部氏」の出自を尋ねて(第6報)80頁

(16)「岩手県南史談会研究紀要第●集」( 年 月 岩手県南史談会)「近世に於ける北上川舟運についてー東山・西岩井を中心としてー」