赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」その妻「列女」を顕彰する

照井館「太郎高晴(1189)」は、代々照井堰を開削した家系。現在の堰は「世界かんがい施設遺産」に。1500年頃は白鳥郷主ともある

【当調査】

照井氏は、初代高春(1189)から数代まで白鳥への開堰にあたり、一関の照井堰の開堰へと移っていったのではないか。照井館の館主は初代の高春だけである。館には子孫が住んでいたか。

 

岩手県史には、白鳥邑「照井舘」館主に「照井太郎高春」とある。前澤町郷土史には「照井高信?」、前沢町史は「照井太郎高春」。

【前沢歴史の会本平次男氏】

高春は白鳥の照井館主。開堰事業の最高技術のサイホンやトンネル工事を生かし、奥羽山麓から、荒地だった伊澤扇状地に灌漑用水を引き、その末水で白鳥地区の産業を起こそうとした当代稀な事業家。

照井高春は藤原秀衡の家臣であるが、平泉滅亡後は奥州総奉行に任ぜられ当知行政を担った葛西氏に仕え、開堰事業に功があった。高春の後裔は照井太郎忠基(数代後裔)隆定(曽孫)ー荻右門ー荻之丞ー掃部右ェ門(照井堰の解剖、附照井掃右ェ門の字事績)。

高春の長子は高直。照井太郎の出身地は一関中里村、藩政時代まで照井村で照井神社もある。

一関と平泉の用水路を開堰したひとであるが、胆沢川の馬留橋(胆沢ダム付近)のあった下の取水口より、前沢の白鳥川に引水しようと開墾した用水堰もある。

子孫照井三郎は、一関の照井堰試掘のため「穴山堰」を開削し、前沢の白鳥川に通水すべく」とある。

 

前沢町郷土史史料】

〇照井館(白鳥村風土記

 南北60間 東西34間

 照井陣場との中伝候、藤原秀衡の時御家臣照井太郎陣場の由申伝候

〇照井高信陣場跡(封内名跡志19)

 衣川の西日虎山にあり、泰衡の臣輝井高信陣場の跡也

 以上二跡一同所也

 【前沢町史】

風土記に「藤原秀衡の家臣、照井太良陣場の由、伝えられている」とあるから、秀衡の功臣照井太郎高春(1189-)の居館跡である。

 

【本平次男「束稲の唄・90」】

照井太郎高春(1189)は藤原秀衡の家臣であるが、平泉滅亡後は奥州総奉行に任ぜられ当地行政を担った葛西氏に仕え、開堰事業に功があった人物との説がある。照井堰を最初に企画、開堰したのが照井太郎高春で、その下流の水路は高春の子の高安が継ぎ難工事を続行したと考えている。照井太郎は、家系の襲名のように代々使われたものである。

【胆沢平野50周年誌】

1189年 照井太郎高春

1221年 照井三郎

1225年 照井氏

1492年 照井太郎

1493年 照井氏

?   照井太郎(白鳥郷主)

 

【照井土地改良区年表】

 

文治5年(1189年)  照井太郎高春開削

明応2年(1493年) 照井太郎高安開削

【一関市ホームページから照井堰】

一関市と平泉町を流れる照井堰用水(てるいぜきようすい)が「世界かんがい施設遺産」に登録され、平成28年12月14日(水)には、農林水産省において登録証の伝達式が行われました。

照井堰用水について
 照井堰用水は、岩手県南部の一関市、平泉町に位置しており、一関市を流れる磐井川(いわいがわ)をせき止め取水、一関市内は中里沖(なかさとおき)までかんがいし、平泉町を流れる水路は衣川(ころもがわ)に落水するまで、途中1.2キロメートルにもなる隧道を通り、幾筋にも分れ流れる総延長64キロメートルにも及ぶかんがい施設です。
 今から800年以上も前に奥州藤原氏 (おうしゅうふじわらし) 三代藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の家臣、照井太郎高春(てるいたろうたかはる)により開削され、先人たちにより幾多の改修工事が行われ、現在も1,073haの水田に用水を供給し、地域の稲作を守り続けてきており、世界文化遺産である平泉の毛越寺(もうつうじ)浄土庭園(じょうどていえん)の大泉が池(おおいずみがいけ)に注ぎ、曲水の宴(ごくすいのえん)の遣水(やりみず)の水源にもなっています。
 照井堰用水は、農業や地域の振興をはじめ、自然・景観・文化など国土、農村環境の保全形成に貢献しているとともに、地域が適切に管理しているとして、平成18年には「疎水百選(そすいひゃくせん)」に認定されています。