赤生津・安部氏の出自を尋ねて

外史による新たな前九年合戦(1051年)伝説発掘と、白鳥舘の安倍頼時七男「比与鳥七郎」。さらに阿弖流為時代にさかのぼり、祖先安倍高丸を追う

【番外】留守家家臣飯倉家(胆沢)は、「御広間御番」「御従」「大番組」「上伊沢代官所役人」であった。

奥州留守氏の研究148頁

飯倉氏

葛西氏家臣飯倉対馬(つしま)の子の但馬が政景代に留守家臣になったもの。西磐井郡流荘金沢邑の飯倉城にあったのが起源である。

※留守氏家臣系譜(八幡家蔵)109頁

大番組三番飯倉利右衛門家とその別家飯倉半之允家。

※允(じょう) (官名) 

 

近世留守氏家臣団の構成44頁

葛西家中

留守氏が奥州留守職になったとき、葛西氏は奥州総奉行となり葛西七郡を領し、大崎氏に匹敵する戦国大名となったが、天正政変により所領を没収され、家臣が葛西一揆をおこして蒲生氏郷伊達政宗に滅ぼされてしまった。多くの家臣は南部領へ逃亡し仕官するもの、帰農するものなどに分散したが、留守氏に仕官したものは次の諸氏である。

宮沢、星、三宮、沢部、斎藤、小島、永井、三戸、米倉、飯倉、金沢、小沢、芳賀、桑島、内山、柴崎、沼倉、黒沢、及川

 

留守家家臣飯倉家は、御広間御番、御従目付、大番組、上伊沢代官所役人であった。

1697 元禄10年 利右エ門   御広間1番
1697 元禄10年 勘之助   御広間4番
1697 元禄10年 佐七   御広間8番
1815 文化12年 善之允   御広間3番

 

1847 弘化4年 善之允 勇治 御従
1855 安政年間 昌蔵   上伊沢代官所役人・郷本石係

 

1866 慶応2年 勇治   御従
1866 慶応2年 佐与治   惣御家中
1867 慶応3年 弁治   水沢御家中
1867 慶応3年 勇治   水沢御家中
1868 明治維新 竹治①   大番組3番
1868 明治維新 作之進②   大番組14番

 

1898 明治31年 勢五郎(作之進子孫) 二右衛門弟 虚空蔵小路秋田県大湯町

 

御広間御番(おんひろまごばん)は、江戸時代の徳川幕府の役職の一つでした。主に将軍の御広間(公用の広間)での警備や、儀式・行事の際の警護を担当していました。この役職は、御家人(幕府に仕える下級武士)の中でも特に信頼される人物が任命されることが多かったとされています。

 

「御従(おつき)」とは、江戸時代の幕府において、将軍や大名などの要人に随行する役職です。御従は、要人が外出する際に同行し、その安全を確保するとともに、必要な支援を行う役割を持っていました。彼らは、要人の側近として行動し、幕府の権威を維持するための重要な役割を果たしていました。

 

「大番組(おおばんぐみ)」とは、江戸時代の幕府における軍事組織の一部で、大番役(おおばんやく)と呼ばれる旗本や御家人から構成されていました。大番役江戸城の警護や将軍の護衛、その他の重要な任務を担当していました。

大番組は複数の組に分かれており、それぞれの組が交替で警護や任務を行う形で運営されていました。このようにして幕府の治安維持や統治のための軍事力を確保し、幕府の権威を保つ役割を果たしていました。

 

「惣御家中(そうごけちゅう)」とは、江戸時代の大名家や旗本家において、家臣団全体を指す言葉です。家中とは、主君に仕える家臣たちの集団を意味し、惣御家中はその全体を包括する表現です。家中には、武士や侍、下級武士、家臣の家族などが含まれ、彼らは主君の命令に従い、様々な役割を果たしていました

 

上伊沢代官所役人 郷本石係

水沢市史3 410

本石係

年貢米、買米の出納を掌る。御蔵所在の代官区内に1-2名おいた。

 

 

 

飯倉家は代々仁右衛門を襲名した

水沢市史3 214

家臣の襲名

近世の武士は父祖の武功や家柄をあらわすべく、代替わりのとき、または成人のときに代々父祖の名を受け継ぐことが多かった。